⑵ 1917年8月末のペトログラード・ソヴェトの方向転換について
1917年8月-9月、各地のソヴェトでボリシェヴィキ化が進行する。権力をソヴェトへという主張がソヴェトの主要課題として下部の各地のソヴェトで位置づけられていく政治過程の始まりである。その先触れがペトログラード・ソヴェトでの政治地図の変化であった。ソヴェト改選でボリシェヴィキ代議員が多数を制したことで、ボリシェヴィキの「権力について」という決議が可決されたのである。
その事実について石井氏は和田編『ロシア史』の「第8章」「❷ロシア革命」でつぎのようにのべる。
「ボリシエヴィキは、ブルジョワ政党との連立を進めてきたソヴィエト右派を除いたボリシエヴィキ主導のソヴィエト左派政椎の樹立を求める決議を、八月三十一日ペトログラード・ソヴィエトで採択するのに成功した。そこでトロツキーや潜伏中のレーニンは、臨時政府を打倒し、ボリシェヴィキが権力を掌握するという構想を提起した。十月十日、市内に戻ったレーニンが出席した党中央委員会は武装蜂起を日程にのぼらせた。」(pp.290-291)
すでに見たように、和田論文に<酷似>した所説であるが、私が問題にしたいのは、所説そのものについてである。
和田氏の所説はつぎのようなものである。
「ところで、いちだんと権威を高めたボリシェヴィキは、たんなるソヴィエト政権でなく、従来ブルジヨア政党との連立を進めてきたソヴィエト右派をのぞいたボリシェヴィキ主導のソヴィエト左派政権を主張した。八月三十一日ぺトログラード・ソヴィエトはボリシェヴィキの提案で、「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」、つまりソヴィエト左派政権を要求する決議を採択した。」(『世界歴史大系・ロシア史3』p.44)
この和田氏の所説は、岩間徹編の『ロシア史』旧版(山川出版社、1979)でのつぎのような自分自身の所説をほぼ踏襲したものである。
「一方で、これまた一段と権威を高めたボリシェヴィキは、単なるソヴィェト政権ではなく、従来ブルジョワジーとの連立を進めてきたソヴィエト右派をのぞいたボリシェヴィキ主導のソヴィエト左派政権を望んでいた。八月三一日、ペトログラード=ソヴィェトは、ボリシェヴィキの提案により、"革命的プロレタリアートと農民の代表から成る政権"、つまりボリシェヴイキ中心の政権を要求する決議を採択した。」(p.451)
問題なのは、その<学説>の当否である。ここで問題にされているボリシェヴィキ提案の決議とは、「権力について」のことである。
その決議は、コルニーロフの反革命陰謀に加担した政治グループを権力から排除して、革命的なプロレタリアートと農民の代表者からなる政権を創設することを訴えたもので、その政権はつぎのような課題を果たすべきとされていた。
1 民主主義共和制の布告。
2 土地の、買い戻しなしでの農民への引き渡しならびに憲法制定会議による決定までの土地委員会に よる管理。
3 全国家的企業にたいする労働者統制や資本家からの戦争利潤の没収。
4 秘密条約の破棄と即時の全面的民主主義的講和の提起。
緊急措置として
1) 労働者階級とその組織にたいするあらゆる弾圧の停止。前線の死刑の廃止、軍隊内の完全なア ジテーションの自由とあらゆる民主主義的組織の回復。軍隊からの反革命分子の一掃。
2) コミサールその他の役職者の地方組織での選挙制。
3) ロシア内の諸民族の自決権の実現。
4) 国家評議会と国家ドゥーマの解散、憲法制定会議の即時招集。
5) あらゆる身分的特権の廃止、市民の完全な平等。
(『ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)中央委員会議事録・1917年8月--1918年2月』Протоколы
ЦК РСДРП(б).Август 1917-февраль 1918, М., 1958, стр.37-38.)
(拙訳『ロシア革命史』(五)「解題」p.460以下参照)
ことは、十月革命なり十月蜂起なりの性格や意味を明らかにする上での重大な問題点なのである。十月革命=ボリシェヴィキ・クーデター説が横行している1990年代にあっては、とりわけ正確に理解しなければならない文書なのである。
結果的にはボリシェヴィキ主導の左派政権なりボリシェヴィキ中心の政権の樹立につながったにしても、このボリシェヴィキ決議では、党派選別はおこなわれていない。あるべき政権の姿は、あくまで課題に即して提起されている。まえもって特定の党派の排除とか特定の党派による権力独占とかは想定されていない。排除されるのは、コルニーロフ陰謀に加担した反革命=反ソヴェトの政治グループに限定されている。
<従来ブルジョワジーとの連立を進めてきたソヴィエト右派をのぞいた>というのは史料の勝手な解釈ではないのか? 決議で問題にしているのは、<ブルジョワジーとの連立を進めてきたソヴィエト右派>などではなく、コルニーロフ反革命の加担派なのである。
また、「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を<ボリシェヴィキ主導のソヴィエト左派政権>とか、「つまりボリシェヴイキ中心の政権」などとする認識も恣意的にすぎる。
概して、両氏はボリシェヴィキの当時の<ソヴェト民主主義>、<ソヴェト議会主義>の構想に無頓着でありすぎる。
ボリシェヴィキ決議にかかげられている課題を見るかぎり、二月革命の課題の補完にほかならない。両氏ははたしてこの決議を読んでいるのであろうか?
また、石井氏は、トロツキーや潜伏中のレーニンが、臨時政府を打倒し、ボリシエヴィキが権力を掌握するという構想を提起したこと、十月十日、市内に戻ったレーニンが出席した党中央委員会が武装蜂起を日程にのぼらせたことをのべているが、それらの命題を直線的につなげることは、現実の歴史過程の歪曲につながる。とくにトロツキーとレーニンの方針をイコールであつかうような記述は史実を無視するものである。それほど単純化できないのであり、限られた紙幅の中で正確に史実を表現するのは、慎重で、かなり工夫した文章を用意する必要がある。(長尾久『ロシヤ十月革命の研究』、拙訳『ロシア革命史』(五)所収拙稿「解題 トロツキーとソヴェト議会主義」参照)
いまから35年ほどまえに和田氏や長尾氏によって<刊行されるべきではなかった>欠陥本という決定的な烙印を押された『ロシア革命』(s.42, 1967)という本がある。ロシア史研究の草分けとも言うべき菊地昌典氏が中公新書の一冊として出した本である。
その菊地氏の『ロシア革命』は、ソ連の学者の所説をそのまま踏襲したせいかもしれないが、その点で、上記の決議の内容をきわめて正確につたえている。上記のレッテルをはられた菊地氏は、それから10年以上たって刊行された岩間編の『ロシア史』でも執筆陣に加えられず、また二月革命~十月革命の専門研究者であった長尾久氏がロシア史研究を断念したためか、以来、二月革命~十月革命の記述はほぼ和田氏の独壇場と化した感がある。山川出版社のロシア史の通史の参考書目では菊地氏のこの本は一貫してはずされたままである。しかし、菊地氏の記述にほかにいかに問題があるにせよ、参考書目から永遠に追放されるべき書物ではないであろう。学ぶべき点も多いのである。以下に、上記の問題点にかんする氏の所説を画像で示す。
トロツキーの写真をかかげているくらいだから、ソ連史家の単なる踏襲とは言えまい。その時代にトロツキーを援用することは、まだまだ勇気が要ることであった。問題の記述にかんする限り、私は、菊地氏の記述のほうが和田=石井説より史実を正しく再現していると考える。
しかも、次の章で問題にするように、それだけではない。