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勝野金政の遺稿の執筆メモにはつぎのような過激なゴーリキー批判の語句が書きつらねられている。
「マキシム・ゴルキー、晩節を汚すな」
「ソ連文学の課題・社会主義レアリズムに名作なし」
「晩節を汚したマキシム・ゴルキー;社会主義レアリズムとゴルキー文学」
「ゴルキーくたばれ!」
また『白海の岸に立ちて』というタイトルで構想された作品の一節には、「視察に来たゴルキーに対する抗議」
が予定され、そこにはつぎのような文言が記されている。
「視察に来たゴルキーに与う。ルナチャルスキー、ジノーヴィエフ、その他ロシア人のスイス、フランス亡命者
の中にいた頃のゴルキーと、スターリンの使徒になった晩年の堕落した彼を笑う。」
ゴーリキーと言えば、日本でも『どん底』や『母』などで戦前から著名なプロレタリア作家である。そのかれは
なにゆえに勝野金政にそのように非難されなければならなかったのか。勝野金政は片山の勧めでゴーリキーを訪問し、
会談しており、勝野金政にとって旧知の文人でもあったのに。
しかし、あまり知られていない事実であるが、ゴーリキーには勝野金政にそのように非難されてもしかたがない
反人道的錯誤を犯していたのである。
2
1998年6月、私はモスクワで、ゴーリキー、アヴェルバッフ、フィーリン編になる『スターリン記念白海・バルト運河
――1931-1934年の建設の歴史』(1998年刊行)という書物を入手した。ふしぎな書物で、出版社(者)の名も監修者の
名も記されていない。しかし、出版者による「行間を読むことを好まない本書の読者へ」という重要な「まえがき」が
ついていた。
その「まえがき」によれば、この書物は、GPU(ゲーペーウー)と共産党の指示で執筆され、1934年に国営の「工場史」
出版所から刊行された同名の書物を復刻したものである。
「まえがき」によれば、1934年に刊行された旧版は1937年に販売停止になり、その後、60年ものあいだ陽の目をみる
ことがなかったのだという。販売停止になった理由は明らかでないが、その書物の<主人公>であるヤゴーダ(GPU長官
で、運河建設の責任者)が粛清(銃殺)されたことと無関係ではないことが示唆されている。
その真相はいずれ明らかになるであろう。ともあれ、このスターリン運河にかんする記録の抹殺によって、同運河建設
の真実も経緯もほとんど世につたえられることなく今日にいたっている。とくに囚人労働の所産であることが。
この本の所在はその後、ソルジェニーツインの『収容所群島』で明らかにされ、かれはその本をいわば逆読みして、
白海・バルト運河の「収容所群島」としての実態をあぶりだしている。
この書物は、ゴーリキーを筆頭に、ブルーノ・ヤセーンスキー、ゾーシチェンコなど36名の当時の高名なソヴェト作家
たちの集団的著作であり、ソヴェト作家同盟組織委員会は執筆者集団の発議にもとづいて、本書をボリシェヴィキ党の
第17回大会に捧げた。
書物は、運河建設にかんする党の決定や、運河建設を担当したGPUやラーゲリなど関連機関の決定・通知などの文書、
工事を推進した幹部や囚人たちにたいする聞き取り、囚人矯正労働を実地に探訪した作家たちの感想などから構成されて
いるが、同書のオリジナルに付せられている内容紹介では、運河の建設は「同志スターリンの提唱により」、「ゲーペー
ウーの指導の下で」、「プロレタリアートのかつての敵の力によって」実現され、「何千という社会的に危険な人々を、
社会主義の自覚的な建設者に鍛え直すというソヴェト政権の矯正労働政策の輝かしい実例」であるとたたえられている。
3
以下、同運河にたいするゴーリキーのかかわりをたどってみる。
ロシア語版の『ゴーリキー年譜』(全4巻)第4巻(1960)によると、同運河にかんするゴーリキーの最初の言及は、
1932年11月27日のロマン・ローランへの手紙に見られる。
1933年8月5日、ゴーリキーは「真実による教育について」という文章を『プラウダ』に書いた。(ゴーリキー
『著作集』30巻(ロシア語版)にも収録されている。)
ついで8月17日、ゴーリキーの提唱で120人の作家たちが実際に運河を訪問する(この出来事は勝野の著作にも出てくる)。
さらに8月25日、ゴーリキーは、ドミトローフ市(モスクワ州)で運河建設突撃隊員(囚人)の集会で演説(上記
『著作集』にあり)。 同日、運河見学から帰った作家たちと会談。
9月3日、ゴーリキーのドミトローフ市での演説が新聞に掲載される。
9月20日、ゴーリキーは、運河建設について総括するコム・アカデミー幹部会の会議で発言、もと囚人との会談の印象
について語る。
10月、ゴーリキーのところで運河建設の経過にかんする書物の編集会議がもたれる。執筆プランが決められ、ゴーリキー
は末尾の一文と序の一部を書くことになる。
12月10日、ゴーリキー「あとがき」を執筆(『初の試み』)。
12月23日、その「あとがき」が『プラウダ』に発表される。
1934年1月、ゴーリキー『スターリン記念白海・バルト運河』の序文「社会主義の真実」を脱稿。同書はその頃刊行。
このようにゴーリキーは運河建設になみなみならぬ関心をよせ、その内外への紹介に意欲的にとりくんでいる。
では、ゴーリキーは運河建設をどのようにとらえていたのか?
かれの演説や論説に注目してみよう。以下、< >内に要旨を紹介する。「 」は引用。
4
■『真実による教育について』(『著作集』27巻60-62ページ)
これはゴーリキーが現地を視察する前の発言である。
<バルト海沿岸から太平洋、北氷洋沿岸からザカフカージエやパミール前の山地にいたるまで「集団労働の真実による
人々の教育という、偉大なすばらしい、世界的に不可欠な事業」がすすめられている。白海・バルト運河建設はわれわれの
教育方式の成功をはっきりと示している。ソ連の敵は、「社会的に処罰された人々の労働を強制労働と称している」が、
それは「階級的敵意で眼がくらんだ者」の嘘、中傷である。>
ゴーリキーは強制労働という事実を否定している。
<白海・バルト運河建設には数万の人々、社会主義建設に敵対するさまざまな危険分子が投入されている。泥棒や富農な
ど・・・>
<白海・バルト運河建設場では「社会的に危険な人間を社会的に有益な人間に再教育する過程」がすすんでいる。>
ゴーリキーは、犯罪者とされる人々の中に無実の者が大勢いることに思いもいたらない。
■『白海・バルト運河建設突撃隊員の集会での演説』は、
<諸君、犯罪者たちは・・・>という挨拶からはじまる。ゴーリキーは突撃隊員をはじめから犯罪者あつかいにする!
<その諸君は、ソヴェト共和国に白海・バルト運河を建設してくれたことで偉業を成し遂げた。>
<GPUは人々を改造するすべを心得ている。諸君がその生き証人だ。>
<敵たちは諸君の働きを侮辱している。運河での1年10カ月の労働の間に12万人が死んだとデマをとばしている。>
デマだったか?
<空想が、現実の、肌で感じとれるような真実となりつつあるような日々にまで自分が生き延びれたことは大きな幸せ
である。>
<驚嘆すべき働きをしたGPUの同志たちと党とスターリンを祝賀する!>(『著作集』27巻73-76ページ)
■ 『スターリン記念白海・バルト運河』の「あとがき」(「初の試み」)
ゴーリキーはそこで、運河がソ連の自然地図を変革して、その国防力を強化し、経済発展に大きく貢献することに
重要な意義を見いだすばかりでなく、運河建設が何万という「社会に有害な分子」にたいする共産主義思想に武装された
人々の勝利を見いだし、そこには、「社会的に病んでいる人々がいかに癒されたか、プロレタリアートの敵がその協力者
にいかに改造されたか」が語られているとのべている。
一貫して、虐げられた人々の立場に立って、リアルに旧ロシア社会の現実を見つめていた作家のゴーリキーは、ソヴェト
社会における<矯正労働>なるものの実態を見ぬきえなかった。運河建設に投入された人々は<犯罪者>=<社会に有害な
分子>にほかならず、その<犯罪者>はGPUのおかげで運河建設という偉大な事業に献身することで、有為な人間に改造
されつつある。それがゴーリキーの判断だった。
ソヴェト体制崩壊後のロシアでは、その点でのゴーリキーにたいする評価は手きびしい。ある百科事典のゴーリキーの
項目には、つぎのように記されている。
<スターリンの道義的援護者をつとめた。かれはスターリンを賛美し、かれが国内で思想と芸術を抑圧したことについて、
知らないはずがないのに黙っていた。とくに、囚人によるスターリン記念白海・バルト運河建設を賛美した作家集団の書物
の執筆をおしすすめた。>(『キリール&メフォーヂー大百科事典』1998年版)
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ゴーリキーはそれから2年後に世を去る(1936年)が、それに先だってフランスの高名な作家ジードがゴーリキーの
病気見舞いのため、訪ソする。ゴーリキーの死後、ジードはソヴェト各地を歴訪し、ソヴェト社会のもろもろの側面を
眼にする。
帰国後、ジードは『ソヴェト旅行記』を発表し、センセーションを巻き起こす(1936年)。日本でも同年のうちに
小松清の邦訳が公刊された(それらは昭和12年、岩波文庫に収録された)。ソヴェトの光と影をありのままに観察・報告
したもので、ソヴェト体制の可能性を信じつつも否定面を鋭くとらえた。否定面とは、ソヴェト社会における欺瞞、偽善、
人権・自由蹂躙の諸事実である。
たとえばジードはつぎのように記した。
「今日ソヴェトで要求されているものは、すべてを受諾する精神であり、順応主義である。そして人々に強要されている
ものは、ソヴェトでなされているすべてのものにたいする賛同である。のみならず、為政者たちが獲得しようとして務めて
いるものは、この賛同が諦めによって得られた受動的なものでなく、自発的な真摯なものであり、さらにそれが熱狂的な
ものであるように望まれているのである。そうして、なによりも驚異に値することは、この要求が達せられていることで
ある。」
「他方では、ほんのわずかな抗議や批判さえも最悪の懲罰を受けている・・・」
「今日いかなる国においても、たとえヒットラーのドイツにおいてすら、人間の精神がこのようにまで不自由で、
このようにまで圧迫され、恐怖に脅えて、従属させられている国があるだろうか。」(岩波文庫版、85-86ページ)
「たとえレーニンでも、今日ソヴェトに生き返ったてきたら、どんなに取り扱われるだろうか。」(97ページ)
それにたいしては、ロマン・ローランをはじめソヴェトを支持していたさまざまな知識人から批判があびせられた。
ジードはあらためて「ローランその他への反論」を発表する。
「ソ連邦はわれわれの理想としたソ連邦ではない。われわれの希望はすべて裏切られた。」
ゴーリキー見舞いでソ連を訪れたジードは、ゴーリキーが見抜きそこねたスターリン体制の実態を炯眼にもとらえた
のである。いまでは万人がそれらのジードのことばに先見の明を見いだして脱帽するはずである。
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参考までにこのジードのソヴェト認識にたいする日本の当時の左翼知識人の反応の代表例として、宮本百合子を
とりあげてみる。百合子(1899-1951)は勝野金政より2歳年長で、1927年12月、湯浅芳子とともに訪ソし、1930年12月
帰国。両者は同じ時期にモスクワに滞在しており、片山を介して間接的に接触があったものの、直接会ってはいないよう
である。
その百合子はジードの『ソヴェト旅行記』について「こわれた鏡・ジイドの知性の喜劇」という一文を『帝国大学新聞』
に寄稿した(1937.10.1)。
そこで彼女は「かつてある才能を証明しえた作家が歴史の本質を把握しえないためにどんなに猛烈に自己分解をおこなう
ものか」ーーその深刻な典型がジードであり、ジードのソヴェト批判は「余りに素朴なデマゴギー」であるとした。
今では、こわれた鏡がどちらであったかは明白である。
革命後のソヴェト社会を描いている百合子の『道標』(1947-50)にしても、スターリンのトロツキー派批判を盲信、そこに
いささかの疑念ももたない。革命家の転落を悲しむのみ。つぎのブハーリン派粛清についても同じ。百合子のソヴェト滞在が
ジードより数年早く、スターリン主義体制の初期に属すとはいえ、あまりに無批判的である。彼女自身のことばをかりれば、
そのソヴェト認識は「余りに素朴」にすぎた。