2)和田論文との酷似
石井論文「ロシア革命 」のはじめの部分(pp.285-293)を以下にかかげ、和田論文との酷似度を示す。
酷似と言ってもさまざまな度合いとパターンがある。
A まず文言が完全に同じもの。それは朱色で示した。
B 句読点を加えたり、削除しただけのもの。筆者のオリジナリティは句読点の取捨にのみある。
C 漢字をひらがにしたり、ひらがなを漢字にしたり、漢語を別のほぼ同義の漢語といれかえたり、漢数字の 十を一や〇や一〇にしたりなど表記をあらためただけのもの。しかし、ときにそのまま利用して、変換の一 貫性の欠如をさらけだしている。
D 助詞・接続詞のたぐいを削除したり、加筆したり、別のものととりかえたりしただけのもの。
B, C, Dの加工文の場合、全体として朱色で示した文言の間に黒色の文字・句読点などが散在することになる。パターンEもあるが、それについては後述。
黒色で示してある部分は、筆者のオリジナルな文言だが、それはだれが書いてもそれに近い記述になりそうな日時・事実経過・固有名詞・引用などの部分で、たとえ和田論文をそのまま利用したとしても、酷似を云々しがたい部分なので黒色のままにしてあるだけで、とくに筆者の独創がみられるわけではない。
以下、酷似個所に和田論文が収録されている『世界歴史大系・ロシア史3』のページを記し、和田論文の該当ページの画像ファイルを用意した(リンク・データ)。和田論文の酷似該当部分を朱色の線で囲ってあるので、読者は自分の眼で異同を確認されたい。
「 二月革命ーー帝政の転覆
革命は、国際婦人デーである二月二十三日(三月八日)の朝、首都の数工場で女子労働者がいっせいにパンよこせのストにはいったことから始まった。それに男子労働者が呼応し、労働者たちはたちまちネフスキー大通りをめざして市の中心部へのデモを始めた。三日目の二十五日にストは全市ストとなった。(32)鎮圧部隊も、二月二十七日朝、下士官に率いられて反乱を起こし、労働者と一緒になることで分解してしまった。(33)
皇帝から解散命令を受け取った国家ドゥーマは、二十七日朝、ひとまずはこの命令に従い、本会議場から退場して別室に移った。そしてその別室で非公式会議を開くことにした。非公式会議では正副議長と各党代表からなる、一二人の国家ドゥーマ臨時委員会が設置された。ようやく二十八日の深夜二時になったところでこの委員会は、政権を掌握し、皇帝の意向にかかわりなく独自に行動することを決断した。そして各省庁の接収に取りかかった。(33---34)
反乱を起こした民衆にたいしては、戦時工業委員会「労働者グループ」の代表グヴォズジェフ、メンシェヴィキ議員チヘイゼ、左翼弁護士ソコロフらが、一九〇五年革命のひそみにならいソヴィエト臨時執行委員会の名で彼らの組織化に着手した。同日夜の創立総会で、チヘイゼが議長に選ばれた。執行委員一五人のうち、ボリシェヴィキは二人にすぎながった。(33)
新生ソヴィエト運動の新しい特徴とは、その創立大会に兵士の代表が参加したことにある。三月一日のソヴィエト総会で、「軍事委員会の意見はソヴィエトの意見と食い違わないかぎり受け入れられる」とする決定が、ソコロフを中心に「命令第一号」という文書にまとめられた。この命令は、首都の兵士革命を全軍に広めるのに絶大な力を発揮したのだった。兵士がソヴィエトに最終的に忠誠を誓ったために、官僚と将校の忠誠を確保した国家ドゥーマ臨時委員会とソヴィエトとのあいだに、いわゆる「二重権力」状態が生まれた。(34)
翌二日、ペトログラード・ソヴィエト総会が臨時政府を条件つきで承認したのを受けて、国家ドゥーマ臨時委員会はリヴォフ公爵を首班とし、外相ミリュコーフ、陸海相グチコフ、司法相ケレンスキーなどによる臨時政府を成立させた。首都のロジャンコと独自に接触していた軍首脳の側も、三月一日夜、モギリョフ市の大本営からプスコフに到着した皇帝ニコライ二世にたいして、はじめはロジャンコ首班の「責任内閣」を認めるよう求め、ついで皇太子への譲位を進言した。皇帝はいったんこれに同意したが翻意し、弟ミハイルヘの譲位の意向を示した。それを聞いたミハイル大公は、三日、身の安全が保証されないという理由で即位を固辞した。ここに三〇〇年のロマノフ朝は幕を閉じた。
三月三日に臨時政府の成立が声明された。新政府の活動の原則としては、つぎの八点がかかげられた。(1)あらゆる政治的・宗教的な性格の事件で有罪とされた者の大赦、(2)言論・出版・集会の自由、団結権とストライキ権の保障、軍人にも政治的自由をおよぼす、(3)身分・信教・民族による差別の撤廃、(4)普通直接選挙による憲法制定会議召集のすみやかな準備、(5)旧警察を廃し、地方自治体に責任を負う民警を設置する、(6)普通直接選挙による地方自治体の選挙、(7)革命に参加した部隊を武装解除せず、首都からも移.動させない、(8)兵士は勤務外では市民と同じ権利をもつ。また、フィンランドについて帝国法規の適用を停止すること、ユダヤ人の入学制限枠を廃止すること、なども決定された。保安部と憲兵隊の廃止も決められ、三月十二日には死刑も廃止された。(36) 」
上記の記述に石井氏の独創は見られない。それだけでない。氏の記述には、和田氏の記述の能動態文を受動態にあらためたり、言い回しを変えたりしただけの文章もあれば、前後の語句をいれかえたり、記述の順序(行やページ)を変えたりしただけの文章もある。これは完全に酷似しているとは言えないにしても、和田論文との関係で言えば、筆者のオリジナリティは和田論文の加工にしかない。文意も論旨も和田論文と同じと言える。これがパターンEで、石井論文の前記の記述の中の青色の部分がそれにあたる。以下のページにはそのようなパターンが数多く出てくる。
「こうして戦時下のロシアに突如出現した政治的に自由な空間のなかで、あらゆる市民運動、住民運動が始まり、種々の社会団体もつぎつぎに生まれた。県庁所在地には社会団体委員会が生まれて権力をとった。労働者ソヴィエトも各地に組織されたが、首都のように兵士が労働者ソヴィエトとひとつの組織となったところは、むしろ例外である。農村では、支配機構の末端の警察分署長が逃げ出した。権力の意向を代弁していた郷長も追放され、それに代って郷委員会が設置された。臨時政府は県・郡のゼムストヴォの参事会議長を、中央政府の代表者として県、郡のコミッサールに任命した。帝政の転覆はまた、多民族的なロシア帝国の分解の始まりとなった。各地で諸民族の活動が始まるが、当初は緩慢な動きであった。そのなかでもすばやかったのはウクライナ人で、彼らは三月四日、キエフでウクライナ中央ラーダを結成した。(36-37)
二月革命体制の危機
エリートのうちには、二月革命を戦争体制を立て直す好機ととらえる者が多くいたことは、否定できない。臨時政府は、三月七日の第二の声明で、連合国と結んだ協定を守ること、戦争を「勝利に終わるまで遂行する」こと、などを表明した。それにたいしてペトログラード・ソヴィエトは、アピール「全世界の
諸国民へ」(十四日)で、革命の成果を脅かす外からの侵略から防衛する戦争は認めたが、無併合、無賠償の平和の実現をめざす意思を明らかにした。そして臨時政府にたいして、帝国主義的な戦争目的を否認するように迫った。臨時政府は動揺の末、二十八日、無併合と民族自決に立つ講和をめざすと声明した。だが連合国にたいする義務を守ることを表明するのも、おこたらなかった。(38)こうした曖昧な外交政策がもとで、外相、ミリュコーフの四月十二日付声明は兵士のあいだに強い不満を呼び起こし、二十日にはミリュコーフ打倒、侵略反対の大規模なデモが起きた(四月危機)。
四月危機を乗りきったあと、臨時政府内部の急進派コノヴァーロフ、ケレンスキーらはソヴィエト内主流派を入閣させ、協力体制を実質化させる連立政府をつくることを推進した結果、第二次臨時政府が五月五日に成立した。ミリュコーフとグチコフといった大物政治家と入れかわって、あらたにツェレチエリとチェルノフら社会主義者がそれぞれ郵政相、農相として入閣した。こうして二月革命体制が形成された。ツェレチェリは、平和のための国際社会主義者会議を開催する計画を進めた。(39)
当初ボリシェヴィキの指導部も、臨時政府とソヴィエトの協力関係に同調していた。しかし四月三日帰国したボリシェヴィキ党の指導者レーニンは、「四月テーゼ」を発表し、臨時政府にたいする不信任、非協力という独自の立場を示し、ソヴィエト内で多数派となってソヴィエト権力の樹立をめざすべきである、と主張した。はじめは孤立した主張にすぎなかったが、二月革命体制が動揺し、臨時政府が窮地に陥るや、彼らの主張は人目を引き始めることになる。
ケレンスキー新陸相は攻勢の準備を進めた。それにしても兵士に攻勢をとらせるのは、難事であった。(39)
政府の政策に不満な首都兵士の圧力に屈したソヴィエト大会は、 六月十八日、「無併合、無償金、民族自決の全面講和」「憲法制定会議の招集」などのスローガンでデモをおこなうことにした。当日は三〇万から四〇万人が参加した。(40)
それでも攻勢は、六月十七日陸相ケレンスキーの命令で始まった(夏期攻勢)。そして兵士のあいだの不
満は高まっ た。七月四日、首都の兵士、労働者は、政府とソヴィエト主流の制止にもかかわらず、「権力をソウィエトヘ」のスローガンのもと、武装デモを起こし、参加者は兵士四万~六万人、労働者三〇万~-三五万人に達した。このデモは、ボリシェヴィキの陰謀であるとされて激しい反ボリシェヴィキ宣伝を呼び起した。トロツキー、カーメネフらが逮捕され、レーニンとジノヴィエフは地下に潜行した。(42-43)
だがソヴィエト主流派や臨時政府内の民主派は、ボリシェヴィキ党全体の非合法化までは考えていなかった。そのため、より強硬な抑圧策を望む司法相と首相は抗議して辞任した。七月二十四日にはケレンスキー首相、ネクラーソフ副首相の第三次臨時政府が誕生した。(43)しかし、七月に最高司令官に任命されたコルニーロフとケレンスキーは、前線だけでなく、後方における抗命者にも死刑を復活するか否かをめぐって、対立を始めた。ケレンスキーの譲歩に勢いづいたコルニーロフは、八月二十四日、配下の軍に首都進撃を命じる一方で、ケレンスキーに屈服を要求した。カデツトの大臣たちは、コルニーロフヘの支持を表明して辞任した。屈伏を拒否するケレンスキーにとっては、頼れるのはソヴィェトだけとなった。八月二十七日夜、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会もケレンスキーのもとの臨時政府を支持し、コルニーロフと闘うことを決定して「反革命対抗人民闘争委員会」を設置した。ソヴィエト側での反コルニーロフ運動の中心となったのは、ボリシェヴィキであった。(44)
クーデタを鎮圧する過程で、ソヴィエト権力を求める声が民衆のあいだに広まり、コルニーロフの動きを支持したブルジョワ政党の権威は失墜した。動揺した基盤を立て直すために臨時政府は、政権問題を討議するための民主主義派会議を九月に、首都で開催した。労兵ソヴィエトや農民ソヴィエトのほか、地方自治体、軍隊、労働組合、協同組合などの代表一〇五〇人が参加した。ところがこの会議は、コルニーロフ反乱に同調したカデット党自体を連立の対象から除くことを決議したために、臨時政府は窮地に追い込まれた。そこで民主主義派会議の拡大議長団会議が開かれて、その会議の代表と有産階級の代表から「共和国評議会(予備議会)」が結成されること、それに責任をもつ政府をつくることなどが決められた。ケレンスキーは「予備議会」にたいする責任内閣制を事実上受け入れ、組閣した。九月二十五日に成立した最後のこの第四次臨時政府には、コノヴァーロフが副首相で入閣し、民意から大きく離れたものとなった。社会的な混乱が増すなかで、政府のなかにも、戦争から離脱する可能性を模索する動きがみられたが、行動にはならなかった。(45)
十月革命
ボリシェヴィキは、ブルジョワ政党との連立を進めてきたソヴィエト右派を除いたボリシェヴィキ主導のソヴィエト左派政権の樹立を求める決議を、八月三十一日のペトログラード・ソヴィエトで採択するのに成功した。(44)そこでトロツキーや潜伏中のレーニンは、臨時政府を打倒し、ボリシェヴィキが権力を掌握するという構想を提起した。十月十日、市内に戻ったレーニンが出席した党中央委員会は武装蜂起を日程にのぼらせた。(46)
行動は、第二回ソヴィエト大会を招集することで労働者党へ権力を移行させる、とのトロツキーの構想のもとに進んだ。十月十二日に、まずペトログラード・ソヴィエトが軍事革命委貝会を設置した。これは、反革命からのソヴィエトの防衛、という目的を掲げて革命的軍隊を動員するための司令部であった。そこには、ボリシェヴィキと左派エスエル、若干のアナーキストも加わった。軍事革命委員会は首都の各部隊にコミッサールを派遣して、自らの指揮下におさめようとした。それに反発したペトログラード軍管区司令官の動きをおさえ、あわせて首都の拠点も制圧した。臨時政府は冬宮への籠城をよぎなくされた。二十五日午前十時、軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、国家権力を同委員会自らが掌握したと発表した。二十六日午前二時、閣僚がたてこもった冬宮も陥落し、大臣も逮捕された。その前にケレンスキーは女装して、アメリカ大使館の車で脱出した。(46-47)
以上の事件は二十五日夜十一時に開催された第二回全ロシア労兵代表ソヴィエト大会で討論された。軍事革命委員会の行動に反対するメンシエヴィキ、右派エスエルは、開会後に大会から退場した。会議に残った代議員は、ボリシェヴィキ三九〇、左派・中央派エスエル一七九、統一杜会民主主義者国際派とメンシェヴィキ国際派三五、ウクライナ社会民主党二一であった。彼らは大会の名においてソヴィエト権力の樹立を宣言し、行動綱領を説明するアピール「労働者、兵士、農民諸君へ」「平和にかんする布告」「土地にかんする布告」の三つをほぼ満場一致で採択した。行動綱領は、平和と土地、軍隊民主化、労働者統制、憲法制定会議の招集、パンと生活必需品の都市農村への供給、民族自決などの目標を宣言した。なお、この時点では社会主義的な要求をいまだ含んでいない。(48)
ボリシェヴィキは、憲法制定会議招集までの「臨時の」労農政府として、人民委員会議を設置することを提案した。左派エスエルに参加を断られたために、単独政権案の提案となった。その顔ぶれは首班レーニン、外務人民委員トロツキー、民族間題人民委員スターリンなどであった。他の政党は、すべての社会主義党派の代表からなる政府を主張したが、ボリシェヴィキは賛成多数で押しきった。(49)成立直後の十月二十七日、人民委員会議は労農政府に公然と反抗し、不服従を呼びかける新聞を発禁にするとの布告をだした。
第二回ソヴィエト大会から脱退した代議員は、予備議会や、市会の関係者とともに独自の臨時政府の再建を模索した。二十八日、右派エスエルが、ボリシェヴィキとブルジョア政党を除いた「同質社会主義者政府」をつくれと呼びかけた。ソヴィエト大会に残った左派エスエル、メンシェヴィキ国際派は、翌二十九日、内乱を回避するために左右両派が協定し、ボリシェヴィキも含む「同質民主派権力」をつくるべきであると呼びかけた。鉄道員労働組合全ロシア執行委員会(ヴィクジェリ)は、その要求を支持して庄力をかけた。(50)カーメネフなど、ボリシェヴィキの内部にも妥協を呼びかける者がいた。(51)しかし、同党主流派の態度は固く、すでに二十九日には、首都で反乱を起こした士官学校生を鎮圧し、首都反攻をめざすケレンスキー軍も三十日のプルコヴォ丘の戦闘で破った。五日間の戦闘ののち、モスクワでも士官学校生を主力とする反革命軍を敗北させた。(49)
全社会主義者の政権を望むウクライナ中央ラーダは、十一月七(二十)日にはウクライナ人民共和国の樹立を宣言し、(50)ボリシェヴィキ政権との対立を深めていった。なお十二月六日に独立を宣言したフィンランド議会の決定を、人民委員会議は、十二月三十一日に承認した。(56)」
以上で照合はやめにする。問題の所在を示すにはこれでもう充分であろう。
石井氏の記述が和田論文にこれほど酷似しているという事実、いやかなりの部分が和田論文とまったく同じであるという事実は、はたして偶然の賜であろうか? その判断はさしあたり読者の判断にまかせることにしよう。
完全一致を避けるためのさまざまな工夫、苦心をしたことがよくわかる。しかもあちこちで拙速に(<ブルジョア>を<ブルジョワ>に変換したかと思えば、<ブルジョア>のまま残したり)。
これが石井教授が担当する講義で受講生が単位認定のためのレポートとして提出したものだったとしたら、教授はどのように対処なさるのであろうか?
これは普通は剽窃とか盗用とか盗作とか称される作業に相当するのではないかという疑念を少なくとも私はいだく。ここでは、ひかえめに、仮に<限りなく剽窃を疑わせる超酷似>と表現しておく。
ただ、それが<剽窃を疑わせる超酷似>に相当する作業であったとしても、そこにはやや複雑な事情がある。石井論文を収録した『新版ロシア史』は当の和田春樹氏が編者だということである。
そこでさらにいくつかの疑念が生じる。
① まず編者の和田氏はこの<剽窃を疑わせる超酷似>の事実を知っていたのか?
② 和田氏が<剽窃を疑わせる超酷似>を知らず、かつ許していなかったとすれば、石井氏による著作権侵害 という犯罪が立件されるのでは?
③ 和田氏が<剽窃を疑わせる超酷似>を知っていて許したのだとすれば、<剽窃を疑わせる超酷似>記 述をあえて世に送った編者としてのの責任が問われないか?
④ 当該論文の筆者としての和田氏は、自分の論文が<剽窃を疑わせる超酷似>の形で他人名義で利用される ことになんの問題も感じなかったのであろうか? 知っていて認めたのであれば、著作権侵害という犯
罪にはあたらないのかもしれないが、自他ともに一種の<剽窃>行為を許容したというこになろう。
そのような融通が学者間で通用していいのであろうか?
⑤ 石井氏は、かりに和田氏に<剽窃を疑わせる超酷似>を許されたのだとしても、他人の記述を自分自 身の名で公にすることに学者として問題を感じなかったのであろうか? その記述に責任が負えるので
あろうか? 自分が記述した個々の史実について立証責任を果たせるのであろうか?
ともあれ、石井氏にも和田氏にも、また出版元にも、以上の<剽窃を疑わせる超酷似>について説明責任が ある。