拙訳『裏切られた革命(岩波文庫版)への批判をめぐって

 
私が日本ではじめてロシア語テキストから訳出し岩波文庫版『裏切られた革命は、1992年に刊行された。窓社から1988年に刊行した、原題をそのまま邦訳書の題名とした『ソ連はどこへ』の訳文をさらに推敲・改訂した訳書である。
 岩波書店でのトロツキー『ロシア革命史』の翻訳出版が決まって、その作業が一段落した頃、
『裏切られた革命のなんどめかの増刷第8刷、2001年2月の計画があり、その機会に編集担当者のH氏から、『裏切られた革命』にたいする匿名の一読者から寄せられた批判の手紙を渡された
 H氏はもちろん、上記の読者の批判に正当性が認められるならば、その機会に私が訳文に手を入れることを期待して私に届けてくれたはずである。
 私は、むろんその手紙をもとに自分の訳文を吟味した。
 しかし、私は訳文を訂正する必要を感じなかった。そのことは編集部のH氏にも報告した。理由は簡単で、その匿名
は、ロシア語テキストではなく、それのフランス語訳をもとにして訳語・訳文の当否を云々しており、自分の手許にもあったそのフランス語訳とつきあわせてみた結果、ロシア語からの私の訳業に別に問題を見いださなかったことである。
 匿名
はどうやら、フランス語訳はロシア語テキストにまったく忠実なものであると理解しているかのようであった。


 その匿名の読者に回答したかったが、匿名であるため、回答するすべもなかったし、またそれに論及する場もなかった。
岩波文庫編集部としても匿名の批判者に回答するすべはなかった。
  
 しかし、私自身はインターネット上の自家出版(ホームページ)を用意することができたので、遅まきながら、回答することにした。


 
 匿名の読者の手紙は次のようにはじまる。

「拝啓 「盲、蛇に怖じず」の類で勝手なことを申し上げます。トロツキー『裏切られた革命』が岩波文庫に入ったのは何よりだったのですが、期するところあり、最近一読してその卓見に感心するとともに、邦文の納得しかねる所が随所にあり残念でした。原テキストの関係だろうとは思いますが、著者の真意が伝えられることが大事だと考えますので、原著をもたないため、仏文訳(1963、Les Éditions de Minuit)と首っ引きで判読いたしました。下に一部例記します。」
 仏文訳とは、
 Léon Trotsky. La révolution trahie , Les Éditions de Minuit,1963.

 そして、拙訳の訳語とそれに対応する仏語からの同氏の訳語との対照表がそえられ、末尾に「裏切られた文庫訳は困る」と追記されていた。

 

 以下、具体的に検討してみる。ナンバーの右側の数字は、岩波文庫版のページと行を示す。行のまえの<+>は<ページの右から>、<->は<左から>の意味。
 左側の訳語は拙訳、矢印の右の語句は
匿名氏がフランス語訳から邦訳した訳語)(朱色)。
 当該部分のロシア語とフランス語(ついでにEastmanによる英訳も)を示しておいたが、
ロシア語やフランス語が読めない方でも、露和辞典や仏和辞典で容易に文字をたどって語義を知ることはでき、私の判断の是非を確認できると思う。
  
1 308,  +10 「部分的な性格」
ラディカルな性格
   フランス語訳ではたしかに radicalとある。しかし、ロシア語テキストでは частичный(部分的)で、これは<ラディカル>とは訳せない。ちなみに英訳でもここは、......partial in character...... 仏訳者の誤認か?
 
2 315,  +5~6 「社会的諸関係の制度」
社会的諸関係の システム
 
「制度」も「システム」も同義では。

3 315,  -4 「ソ連の性格」
ソ連の社会的性格
 フランス語訳ではたしかに caractère social だが、ロシア語では、たんに характер.(性格)
  英訳では、the character of the present Soviet Union

4 321, +2 「私的所有」
個人的所有権
 
ほぼ同義

5 328, +3 「ビザンチン式の賛美の自由……」
ビザンチン式の指導者賛美
 litanies byzantines  au Chef
  свобода византийских похвал  
 ロシア語原文には「指導者」にあたる語はない。

英訳でもたんに Freedom of Byzantine flattery......

   au Chef は仏訳者の添加物

6 328,  -2 「耳にしたところでは」
見たように
仏  Nous l'avons déja vu...
露 
как мы уже слышали...
英訳 As we have already heard,
 語義の伝えかえにすぎない。

7 328, -1 「問題になっているのだという」
問題 なのである
  il ne s'agit pas...
露  дело идет о...
  同じこと。

8 329, +10 「数パーセント」
これこれのパーセント
 à tant pour cent de...
 нескольким процентам
 
ロシア語では「数パーセント」

9 332, +2 「政治的定式 紋切り口上
 仏  formule politique
  露  политическая формула
   仏露とも「政治的定式」で可。
 
英訳では..... a political formula......

10 332, +3 「芸術的形象」  格好いい比喩
仏 
métaphore esthétique
 художественный образ
 ロシア語からふつう
芸術的形象
と邦訳するならわしがある。しかし仏文のように言い換えてもそう問題はないかもしれない。
 英訳では......a poetic figure......

11 334, +2 「警察的な外観」
フィクション
仏   fiction
 видимости
  フィクション
は誤訳というほどではないにしても,やや訳しすぎ.。
英訳 ......the police appearance......


12 345, -1 「没落の時期に」
没落 が始まるや
仏    après que son déclin fut commencé...
露 
  В  ПЕРИОД  ЗАКАТА
   
少なくとも「始まる」などロシア語原文にはない。
英訳 ......in the period of its decline......

13 345, -1 「そのかわり」
それも
仏   mais
露  ЗАТО

 英訳  but

  「それも」と訳す必然性はない。

14 346, +4 「最高仲裁官」
最高 審判
仏  arbitre
露   суперарбитр
 
ただの審判ではなく、仲裁・調停を司る人間のこと。ただし、ロシア語原文では<スーペル>とあるので「超仲裁官」のほうがよかったかもしれないが、「超仲裁官」ではわかりにくいかと思う。

15 346, +8 「朕は国家なり」
彼が国家なり(国家は彼なり)
仏   l' Etat c'est lui
露  государство--это я!
 
 この部分は、ロシア語から訳しても「国家ーーそれは私である」となる。仏文は正しくつたえている。 匿名氏の指摘は正しい。ただ私があえてそこを「朕は国家なり」としたのは、この一節はルイ14世の有名なことばの引用と見られ、日本では一般に「朕は国家なり」という成句で流布しているからである。
 氏が「彼」と表現しているところを見ると、その史実を知らないのかもしれない。
l' Etat c'est lui という仏文をだれがどうして「朕は国家なり」と邦訳したのかは不明だが、それは、それを忠実にロシア語に移したトロツキーのロシア語文のように、本来は、「国家とは私のことである」とするほうが原意に近いように思える(「朕」などという陳腐な語がいいか、私・おれ・わしなどがいいかはあえてここでは問わない)。
 英訳では、.........
l' Etat --c'est moi......と当人のことばをそのままフランス語でつたえている。

16 351, +8~9  「絶望する」いらだつ
仏   exaspérés
露 отчаяние
  exaspérésは「激怒」という語義のようだが、ロシア語ではやはり「絶望」である。
 英訳 ....become more desperate......

17 351, +9 「哲学は古い定式」
  妄想は古い常套句
仏  philosophie délirante...au moyen de vieilles formules.....
露  ......философии...старыми формулами...
   ロシア語のテキスト通りだと、ここの部分は<この哲学のたわごと的性格は……古い定式で……を隠蔽する……>という構文になっているが、訳文ではわかりやすくするためにやや工夫した。<
この哲学のたわごと的性格
を仏文のように philosophie délirante としたり、それを<妄想>と訳したりしていいかどうかは疑問である。
 なお英訳は ......The delirious character of this philosophy....

18 353, -5 「幕僚」
首脳部
 états-majors
露   штабы
 ここではほぼ同義。

19 353, -3 「にすっかりしみついている」
をふるわせる
仏  qui fait trembler...
露  пропитывающий ...
 仏訳がなぜ 
fait tremblerとするのか奇異。
英訳は......imbues......

20 355, -1 「後見し」
監督
  tutelle
露 опекать
 仏文でも「
後見」の語義。なぜ「監督」
でないといけないのか
 
21 356, -4 「自分をごまかすことなく」
幻想をいだかず
 ne manqueront
露  не обманывая себя

 英訳 ......without deceiving themselves......

 拙訳はロシア語の語義どおり。

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 以上、匿名氏の批判を吟味してみた。私があえて匿名氏の批判的指摘をとりいれなかった理由がわかってもらえと思う。
 原典がロシア語なのに、仏訳と比べてロシア語からの邦訳を吟味するという作業は、適切ではない。仏訳や英訳がロシア語原典に必ずしも忠実でないことは、本稿や、このシリーズの先行論考で明らかになっている。
 「裏切られた文庫訳は困る」などという氏の判断は穏当ではない。
 
氏がこのホームページにアクセスして、私の回答を読み、納得してくださることを期待したい。