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 十月革命時のケーレンスキーの首都脱出形態について

 ここで問題にするのは、
臨時政府首班のケーレンスキーが十月蜂起のさい、①女装して、②アメリカ大使館の車で、首都から逃亡=脱出したとする<学説>である。上記の新版『ロシア史』の、石井規衛氏担当の第8章「ロシア革命とソ連邦の成立」にそれが出てくる(p.291)。

 
臨時政府の首相がどんな姿で、どんな方法で脱出したかは、歴史的には些事に属することであろう。だから、私があえてここでとりあげて、問題にするほどもないことなのかもしれない。レーニンにしても地下活動を余儀なくされていた時期には変装をしていたのであり、敵対行動が予想される局面でケーレンスキーがかりにそうした脱出手段をとったとしても、問題にすべきことではないような気がするのだが。それなのに、筆者が限られた紙幅の中であえてそのような記述をおこなうというのは、首相ケーレンスキーのそのような脱出形態になにか特別な意味を見いだそうとするからであろう。たとえば、臆病とか、変節とか。

 ところで、
ケーレンスキーが①女装して、②アメリカ大使館の車で、③脱出したという<学説>は、石井氏がはじめて唱えたものではない。日本のロシア革命史記述では長い伝統がある。
 
 管見では、上記の<学説>が登場するのは岩間徹編『ロシア史(新版)』(1979、1刷 ; 筆者が参照したのは1984、4刷)で、和田氏が執筆した第8章「ロシア革命」である。そこにはつぎのように記されている。
 
「首相ケレンスキーは女装してアメリカ大使館の車で逃げたが、コノヴァーロフ以下の閣僚は逮捕された。」(p.454)

 和田氏がはじめてロシアの十月革命について執筆した論文は、9年まえの岩波講座『世界歴史』現代 1(1970)所収の『4 十月革命』であると思われる(和田氏「論文目録」)が、そこでは、たんに「首相ケレンスキーは逃亡し・・・」と記すにとどまっていた(384)。
 しかし、
『ロシア史(新版)』以後は先の所説が一貫して唱え続けられることになる。

 ■ 『世界大百科事典』(平凡社)9(1988

 「十月革命で打倒されると、閣僚たちを冬宮に残し、
自分だけ女装してアメリカ大使館の車で逃亡し  た。」

  ついで和田氏も編者に名を連ねている『ロシア・ソ連を知る事典』(平凡社、1989)のケーレンスキーの項目。筆者は和田春樹氏。

  ケーレンスキーは「閣僚たちを冬宮に残し自分だけ女装してアメリカ大使館の車で逃亡した。」

  
いずれも、<仲間を見捨てて、変装して、外国大使館の助けをかりて敵前逃亡した卑劣漢>という形象である。

 
 それからさらに10年ほど経て刊行された田中・倉持・和田編の『世界歴史大系 ロシア史』3(山 川出版社、1997)の、やはり和田氏が担当した第2章「ロシア革命」。

 
 「ケレンスキーは女装して、アメリカ大使館の車で脱出していた。コノヴァーロフ以下は冬宮のなかで逮捕された。」(p.47)

  ここでは「逃亡」が「脱出」となって、ケーレンスキーの名誉がやや回復された。記述に一貫性がない。

 和田氏が十月革命を担当したロシア史書や平凡社の百科事典などそれなりに権威をもつと一般に見なされている書物を参照する読者ーーその中にはもちろん歴史を教える教師も歴史を学ぶ学生も、さらには歴史の教科書や参考書の執筆者もいるであろうーーは、ケーレンスキーをそのような政府首班として受けとめるわけである。
 
 もっとも、ロシア史研究者のすべてがケーレンスキーの首都脱出について上記のような記述をおこなっているわけではない。
 
 たとえば、

 ■ 長尾 久『ロシヤ十月革命』(亜紀書房、1972)
  「首都から逃亡したケレンスキーは・・・クラスノーフとともに・・・首都に攻めのぼろうとし
  た。」(p.243)


  長尾久『ロシヤ十月革命の研究』(社会思想社、s.48=1973)では、単に「一一時頃、ケレンスキーが車で前線へ逃亡した」とされている(p.375)。
 
 
 倉持俊一氏の『ソ連現代史Ⅰ』(山川出版社、1991、2版)では、「ケレンスキーは、すでにこの日の昼ごろ援軍を求めるため首都から脱出していた」(p.214とだけ記し、いでたちなどの細部には れていない。
 
 ■
 木村英亮『ソ連の歴史ーーロシア革命からペレストロイカまで』(山川出版社、1991)

  「ケレンスキーは二五日午前のうちに市街へ逃亡していた。」(p.49)
 

 
 藤本和貴夫氏執筆の『日本大百科全書』(小学館)8(初版1986、1990、7刷)のケーレンスキーの項目。
 
 「ケレンスキーは前線の兵士を獲得するため首都を脱出・・・」(
p.280

 これらの史家が、
<女装>、<アメリカ大使館の車>説を否定しているのか疑問視しているのか、あるいは単にそのような些事に触れようとしなかっただけなのかは不明である。ともあれ、和田氏の説はロシア史研究者の中ですぐれて独創的である。
 
 しかし、そうした<学説>
を意識的に検討したうえで、それをあえて否認した史家がいた。前章でも触れた菊地昌典氏の『ロシア革命』(1967)である。
  菊地氏はそこでつぎのように記している。

「ケレンスキーは、前線から軍隊を一刻も早く呼びもどすためと称して、国旗をつけた
アメリカ大使館の自動車をしたがえて、全速力で冬宮を脱出した。

 そして、氏は、ケーレンスキー女装説にもわざわざ論及して、ケーレンスキー自身の証言に依拠して、それを否定した。<女装>説ばかりでなく、
<アメリカ大使館の車>利用説をも。そのさい、トロツキーの『ロシア革命史』でのその問題での論及にも注目している。p.338-339. 画像データはこちら
 少なくともそのような先行<学説>がある以上、それをさらに否定して、あらためて<女装>、<アメリカ大使館の車>、<逃亡>説をとるなら、菊地氏の書物にほかの点でいかに瑕疵があろうとも、それをあえて否定する根拠を示すべきではないか?
 和田氏が菊地氏の
『ロシア革命』を批判した論文菊地昌典氏『ロシア革命』(中公新書)について(『ロシア史研究』第16号、1967)は、菊地氏の記述を細部にまでわたって克明に吟味したものだが、少なくともケーレンスキーの脱出経緯にかんする菊地氏の上記の批判には論及していない。無視していいものではなかろう。

 脱出形態にどのように論及するかは、研究者の史観の問題であり、歴史記述としていずれが妥当かはいちがいに言えないであろう。史家の課題意識にかかわる問題だからである。しかし、問題は、記述された<史実>が真実を反映しているかどうかである。これは史観以前の問題である。
 
 その<史実>の当否を検証してみよう。
いささか歴史をさかのぼって、史料上の根拠をさぐってみたい。

 トロツキーは『ロシア革命史』で、ケーレンスキーの首都脱出と
アメリカ大使館の車とのかかわりに注目して、ほぼ2ページをあてて詳述している(岩波文庫版、第5分冊、pp.144-146)。根拠はケーレンスキー自身の証言と、当時のアメリカ大使の発言である。後者については、どうやら、ミリュコーフの『第二ロシア革命史』 に依拠しているようである。
 まずアメリカ大使の証言。ミリュコーフが紹介するところによれば、ケーレンスキーは、前線に赴くために車が必要だとして、
ホワイトハウス(人名)という大使館書記官の専用車の提供をもとめたという。大使たちは、車を没収されたがそれに抵抗できなかったという口実を用意した。ただし、国旗はとりはずすように要求した。しかし、相手側がそれをいやがったので、抗議するだけにとどめた。あとで、ケーレンスキーがアメリカ大使館の車でアメリカ国旗をかかげて市外へむかったという噂を聞いた。(см.П.Н.Милюков. История второй русской революции,.  М., 2001, с.615-616.)
  しかし、ミリュコーフはーーそしてトロツキーもミリュコーフと同じようにーーこの大使の証言の最後の部分には疑問をはさみ、むしろケーレンスキーの証言をとりいれる。そして、ケーレンスキーは自分の専用車に乗り、アメリカの旗をつけたアメリカの自動車がそれにつづいたというのが真相だと見る。

 では、ケーレンスキー本人の証言は? かれは、
『ガーッチナ』(Гатчина,1922)という手記でつぎのようにつたえている。

「・・・私は、このうえなくおおらかなおももちで、同行者といっしょに司令部の中庭に降り立った。自動車に乗った。たまたまそこにアメリカの車があった。私の車には将校ひとり分の席が足りなかったので、その将校は別の車に乗った。ただし、市内ではアメリカの旗をつけて、「相当の距離をおいて」われわれから離れて出かけた・・・私のふだんの外出のいつもの外見は細部にいたるまで全体が守られた。私はいつものように、自分の席ーー後部座席の右側に席をとり、住民も軍隊もすっかり見慣れている半軍服を着ていた・・・」(Октябрьская революция.Мемуары.М., Терра, 1999,  стр.192.)

 ケーレンスキーはそこでは、アメリカの自動車が先を走ったのか、後からついてきたのかに触れていない。しかし、ミリュコーフもトロツキーも、国旗をつけた
アメリカの自動車が後からついていったと理解している。
 ケーレンスキー自身は後年の『回顧録』では、やや記述を変え、<同乗できなかった部下の1将校が、あとからついてくる連合国(アメリカ国旗には言及せず)の自動車に便乗していたことをあとで知った>とつたえている。
А.Ф.Керенский. Россия на историчеком повороте,М., 1993, стр.310. 邦訳、571-572)
 
 本人以外の目撃証言もある。

 現場でケーレンスキーの出発を見届けたスタンケーヴィチは言う。
「われわれはかれを見送った。かれは正装して自分の専用車で副官たちをしたがえて出かけた。」(В.Б.Станкевич, Воспоминания. 1914-1919, 1994 ,стр.139)アメリカの車についての言及はない。

 どうやらケーレンスキーがアメリカの自動車に乗ったというのは、事実ではないようである。しかし、それではアメリカの自動車はケーレンスキー車の前か後か? もう少しこだわってみる。

 ハリソン・ソールズベリの『黒い夜白い雪』という本がある(後藤洋一訳、時事通信社、s.58=1983;Harrison E.Salisbury,  Black Night, White Snow. Russia's Revolutions 1905-1917, 1978)。そこにケーレンスキーの首都脱出劇について詳しい記述が出ている。そこでは、臨時政府の官房長をつとめていたナボーコフの伝聞証言が紹介されている。

 私もその証言を読んでみた。
『臨時政府』(1921)という回想記である。そこには、二人の将校にケーレンスキーを前線に向かわせるための車の手配をもとめられたが、無理だとことわったこと、そのあと、共和国評議会=予備議会の衛視から、<ケーレンスキーが二人の副官とオープンカーで広場を横切ってヴォズネセンスキー大通りに向かい、そのあとから別の車がついていった>とつたえてきたことを記しているВременное правительство, Архив русской революции, ,том 1, стр.84-85.)。
 アメリカの旗には言及していないが、車は2台で、ケーレンスキー車が先導していたようである。しかし、
ソールズベリの書物でより重要なのは、当の車を調達し、かつケーレンスキーの車に同乗した将校の証言を発見して、細部を再現していることである。
 それによればその将校はクニルーシャという名前で、ポルコーヴニコフ(ペトログラード軍管区司令官)に命じられて、ケーレンスキーが乗る自動車を調達したのである。その証言は、
Красный архив1925)に発表されている筆者は未見)。ケーレンスキーが乗ったのは、ピアス=アロウというオープンカーである。クニルーシャは「ケレンスキーに先行するように命じられてルノーに乗りこんだ。」しかし、運転手は行き先を知らない。宮殿広場を何度か大きくまわり、「ケレンスキーの乗ったピアス=アロウもそれに従った。」途中でいくどか後続するケーレンスキーから行き先を告げられ、その指示に従う。「エカチェリーナ運河にさしかかったとき、ピアス=アロウは速度を上げて先頭に出た。」(邦訳、p.209)
 
 ソールズベリの判断をさらに補強するものがある。
 

 最近他界した高名なロシア革命研究者のスタールツェフは去年刊行された『ロシア史のドラマーーボリシェヴィキと革命』という書物の十月革命にかんする章で、ケーレンスキー脱出についてつぎのように言及している。
 
<ケーレンスキーは強い自衛本能にしたがって、首都を去り、忠実な軍隊をみずからペトログラードに連れてくるために北部戦線に向かうことを決意した。ピアス=アロウの車に乗って、宮殿広場から中央司令部のアーチをくぐって出発した。アメリカ国旗をかかげたアメリカ武官の車がケーレンスキーのオープンカーの先を走った。>

Драма российской истории: большевики и революция, М., 2002,стр.221)
 これは、クニルーシャの証言をもとにしているようである。スタールツェフは出典を示していないので、ソールズベリの本と無関係に自分クニルーシャの証言Красный архивで発見したのか、あるいは、ソールズベリの本でそのことを知ってКрасный архивで確認したのか、あるいはソールズベリの本をただ援用しているだけなのか不明であるが、そこに記されている記述は、ソールズベリの記述と一致する。

 以上を綜合すると、ケーレンスキー車は出発にあたっては、先頭を走り、ついでアメリカ国旗をつけたアメリカ大使館の車を先に走らせ、そのあとでまた先に出たのだと考えることができよう。また脱出の狙いは、かれのその直後の、政府軍を率いての首都進撃という事実に照らして、やはり援軍を連れて戻るための<脱出>であり、単なる<逃亡>ではなかったと見るべきであろう。

 最後に
<女装>説

 以上の各種の証言には<女装>説はまったく出て来ない。

 事実、ケーレンスキー自身がかなり後年になって、
<女装>説知ってそれに抗議する。和田氏も上記の2種の『事典』で紹介している『ケーレンスキー回顧録』(恒文社、1967、pp.571-572)の中で。抗議の趣旨はこうであるーーソ連で、まともな歴史研究では自分の首都脱出について正しく記述されているが、大部分の歴史教科書では、自分が女性用のスカートをはいて逃げ出したというような嘘がくりかえされている。(А.Ф.Керенский. Россия на историческом повороте. Мемуары.М., 1993, с.310)

 いったいどこから和田氏の<女装>説が出てきたのか

 トロツキーの『ロシア革命史』には<女装>説への言及がある。冬宮内にたてこもっている政府側の将校の間で、ケーレンスキーが看護婦に変装して逃げ出したといううわさが流れていたという指摘である(岩波文庫版、第5分冊、p.162)。トロツキーはたんにうわさとして紹介しているだけで、真に受けてはいない。<女装>説アメリカ大使館の車を同行させての公然たる脱出という状況と矛盾する以上、当然である。
 和田氏はソ連時代の歴史教科書からその史実を拾ったのであろうか? 
 ケーレンスキーの片腕であったスタンケーヴィチは、ケーレンスキーの脱出時についてつぎのように証言している。
「われわれはかれを見送った。かれは正装して自分の専用車で副官たちをしたがえて出かけた。」(
В.Б.Станкевич, Воспоминания. 1914-1919, 1994 ,стр.139)
 ナボーコフに報告した衛視にしても、ケーレンスキーが女装しいたなら、ケーレンスキーとは判断できなかったはずである。衆人環視の中で堂々と宮殿広場と大通りを経てガーッチナへ向かったのであるから、状況と矛盾する<女装>説など出るはずがない。正装で、だれにもそれとわかるような姿で脱出したと見るべきである。

 海外には、特異な説を述べている者もいる。リチャード・パイプスの『ロシア革命史』(西山克典   訳、成文社、2000年)がそうである。パイプスによれば(翻訳による)、
 「ケレンスキーは・・・午後九時に、セルビア人将校に扮し、秘かに脱出し、アメリカ大使館から借用した車で前線に向かった。」(p.154)

 出典が示されていないが、上記の史料に照らして、パイプスの所説は荒唐無稽である。)
  
 ところで、きわめて注目すべき事実がある。
 和田春樹氏は
2001年に『ヒストリカル・ガイド ロシアという本を出している。同じ山川出版社の刊行である。著者の「あとがき」によれば、1993年に刊行した『地域からの世界史 ロシア・ソ連』(朝日新聞社)に加筆したものである。『ヒストリカル・ガイド ロシアには、『地域からの世界史 ロシア・ソ連』にはなかったケーレンスキーにかんする記述が新たに加えられている。それはつぎのようなくだりである。

 「冬宮にたてこもった臨時政府の閣僚たちは、二十六日になって逮捕された。 ケーレンスキーはそれより前に冬宮を脱出し、プスコフの北部方面軍司令部にいたり、クラスノフのカザーク部隊とともに首都反攻ををめざした。」(p.145)画像

 従来、和田氏がほぼ20年間、一貫して主張してきた<女装><アメリカ大使館の車><逃亡=脱出>なる<学説>の面影もない。これは、旧来の所説の撤回、訂正なのか? それともあえて
<女装><アメリカ大使館の車>などの些事に触れる必要がないと考えたのであろうか? それにしては、なぜ『地域からの世界史 ロシア・ソ連』に書いてなかったケーレンスキー関連の細部をわざわざ『ヒストリカル・ガイド ロシア』で加筆したのか?

 奇異に感じることはまだある。前掲の石井論文を再度見て欲しいが、氏はこの事項でも和田論文を<踏襲>している。
 <超酷似>であろうとなかろうと、石井氏は自分の記述に責任をもてなければならない。
 石井氏は、『ヒストリカル・ガイド ロシア』での和田氏のケーレンスキー関連の記述を知らなかったのであろうか? 知っていても、不審に思わなかったのであろうか? 
 
 また編者の
和田氏は、石井論文のその記述(<女装><アメリカ大使館の車><逃亡=脱出>)が気にならなかったのであろうか? それとも、和田氏は石井論文に眼を通していなかったのか? 
 それは、編者の愚行か裏切りか?


 
いずれにせよ両氏にはこの点でも説明責任がある。



 最後に、『新版ロシア史』の参考文献リストについて
 
 
 同書の「参考文献」では、『世界歴史大系 ロシア史』にかかげた参考文献との重複を避け、最近刊行されたものをおさめることにしたが、「もっとも基本的な文献はこの限りではない」とのべている(p.046)。トロツキー『ロシア革命史』は、その『世界歴史大系 ロシア史』にもかかげられていない。20年も前(!)の岩間徹編『ロシア史(増補改訂版)』にかかげた参考文献との重複を避けたためらしい(そちらにはたしかに山西英一訳の『ロシア革命史』があげられている)。しかし、『世界歴史大系 ロシア史』にかかげた参考文献には、重複していても重ねてあがっている文献もある。これはトロツキーの『ロシア革命史』にたいする一定の価値判断を示すものであろう。和田春樹編の新版『ロシア史』の参考文献にあがらなかったこともそのあらわれであろう。しかし、
トロツキーの『ロシア革命史』の拙訳(岩波文庫、2000-2001)は、かりに「もっとも基本的な文献」にはあたらないにしても、「最近刊行された」ものには該当するし、またロシア語のオリジナルから訳出し、英語版からの重訳である山西訳のさまざまな瑕疵を補正したものなのである。「参考文献」にあげるくらいのことはしてもいいのではなかろうか。

 私は岩波文庫『ロシア革命史』(五)(2001年5月刊行)の訳注でケーレンスキー<女装>説たいする疑問をのべておいた(末尾横書き部分p.9)。和田春樹編の新版『ロシア史』の刊行は、そのあとである。参照しようと思えばできたはずである。

 かつて和田氏とともに菊地氏の『ロシア革命』を批判した長尾久氏は、「トロツキーを理解する事なしには、十月革命の把握はできない」、「一九一七年については、このトロツキーの著作(『ロシア革命史』をさすーー藤井)の超克こそ、我々の課題でなければならない」、「全面的にトロツキーの著作より劣っている本書(菊地氏の『ロシア革命』ーー藤井)は、完全な失敗作と言うより他ない」(『ロシア史研究』第16号、1967、pp.50-51)と記し、トロツキー軽視を批判(すでに見たように、菊地氏はある点ではトロツキーに依拠してもいるのだが)するとともに、トロツキーを超えることを主張した。
 しかし、日本のロシア史研究者の間には、どうやらそうしたトロツキー軽視がなお続いているようである。

 『ヒストリカル・ガイド ロシア』での和田氏のケーレンスキー記述がそれまでの所説の撤回ないし訂正を意味するとするなら、和田氏もまた、ろくにトロツキーの『ロシア革命史』を読んでいなかったこと、いやそれどころか、平凡社の事典のケーレンスキーの項目でみずから紹介している当人の回想記(<女装>説にたいする抗議のくだり)そのものさえまともに読んでいなかったことをさらけだすことになるろう。

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