トロツキーは『ロシア革命史』で、ケーレンスキーの首都脱出とアメリカ大使館の車とのかかわりに注目して、ほぼ2ページをあてて詳述している(岩波文庫版、第5分冊、pp.144-146)。根拠はケーレンスキー自身の証言と、当時のアメリカ大使の発言である。後者については、どうやら、ミリュコーフの『第二ロシア革命史』 に依拠しているようである。
まずアメリカ大使の証言。ミリュコーフが紹介するところによれば、ケーレンスキーは、前線に赴くために車が必要だとして、ホワイトハウス(人名)という大使館書記官の専用車の提供をもとめたという。大使たちは、車を没収されたがそれに抵抗できなかったという口実を用意した。ただし、国旗はとりはずすように要求した。しかし、相手側がそれをいやがったので、抗議するだけにとどめた。あとで、ケーレンスキーがアメリカ大使館の車で、アメリカ国旗をかかげて市外へむかったという噂を聞いた。(см.П.Н.Милюков.
История второй русской революции,. М., 2001,
с.615-616.)
しかし、ミリュコーフはーーそしてトロツキーもミリュコーフと同じようにーーこの大使の証言の最後の部分には疑問をはさみ、むしろケーレンスキーの証言をとりいれる。そして、ケーレンスキーは自分の専用車に乗り、アメリカの旗をつけたアメリカの自動車がそれにつづいたというのが真相だと見る。
ケーレンスキーはそこでは、アメリカの自動車が先を走ったのか、後からついてきたのかに触れていない。しかし、ミリュコーフもトロツキーも、国旗をつけたアメリカの自動車が後からついていったと理解している。
ケーレンスキー自身は後年の『回顧録』では、やや記述を変え、<同乗できなかった部下の1将校が、あとからついてくる連合国(アメリカ国旗には言及せず)の自動車に便乗していたことをあとで知った>とつたえている。
(А.Ф.Керенский. Россия на историчеком
повороте,М., 1993, стр.310. 邦訳、571-572)
<ケーレンスキーは強い自衛本能にしたがって、首都を去り、忠実な軍隊をみずからペトログラードに連れてくるために北部戦線に向かうことを決意した。ピアス=アロウの車に乗って、宮殿広場から中央司令部のアーチをくぐって出発した。アメリカ国旗をかかげたアメリカ武官の車がケーレンスキーのオープンカーの先を走った。>
(Драма российской истории: большевики
и революция, М., 2002,стр.221)
これは、クニルーシャの証言をもとにしているようである。スタールツェフは出典を示していないので、ソールズベリの本と無関係に自分でクニルーシャの証言をКрасный
архивで発見したのか、あるいは、ソールズベリの本でそのことを知ってКрасный
архивで確認したのか、あるいはソールズベリの本をただ援用しているだけなのか不明であるが、そこに記されている記述は、ソールズベリの記述と一致する。
以上の各種の証言には<女装>説はまったく出て来ない。
事実、ケーレンスキー自身がかなり後年になって、<女装>説を知ってそれに抗議する。和田氏も上記の2種の『事典』で紹介している『ケーレンスキー回顧録』(恒文社、1967、pp.571-572)の中で。抗議の趣旨はこうであるーーソ連で、まともな歴史研究では自分の首都脱出について正しく記述されているが、大部分の歴史教科書では、自分が女性用のスカートをはいて逃げ出したというような嘘がくりかえされている。(А.Ф.Керенский.
Россия на историческом повороте. Мемуары.М., 1993,
с.310)