ロシア革命史研究における疑問 2
  
 「二重権力消滅論」についての再吟味
                                             ーー倉持俊一先生を追悼しつつ (2004.6.8)

 45年以上もまえからロシア史研究会の一員として、個人的面識こそなかったが、かねてから、トロツキーの『ロシア革命史』の視点を受け継ぐ立場でロシア革命にかんする記述を日本の読者に提供してきた先駆的歴史家としてかねて私が尊敬していた倉持俊一先生(法政大学名誉教授)が、1月19日他界された。「偲ぶ会」へのお招きを受けたが、そこへ参席するほどの資格があると思えなかったので、そちらはお断りした。そのかわり、インターネット上に先生への私なりのメッセージを搭載することにした。



 トロツキー『ロシア革命史』の邦訳(岩波文庫)にさいして先生のトロツキー認識に接し、その炯眼に「眼から鱗」の感をいだいていたが、訳業をすすめる過程で私は、先生(以下、単に倉持氏と表現させていただく)と木村英亮氏との間でちょっとした論争があったことも知った。もっとも、それは論争というほどのものではなく、書評とそれにたいする反論というレヴェルのささやかなもので、それ以上、両者の間でも、またロシア史研究者の間でも問題にされることがなかった不発の論争であったが。

 経緯はこうである。
 倉持氏は、1996年の『ロシア史研究』誌に、「木村英亮『二〇世紀の世界史』『増補版 ソ連の歴史』」という書評を掲載した。そこでとりあげられた前者の著書は、山川出版社から1996年に刊行されたものであり、後者のそれは1991年に同じく山川出版社から刊行された『ソ連の歴史』の増補版として1996年に刊行されたものである。その倉持氏の書評にたいして木村氏は、明くる1997年の『ロシア史研究』誌で、「倉持俊一氏のソ連史観、世界史観を問う」という反論をおこなった。

 論点は多岐にわたり、私にはそのすべてに論及する力はないが、トロツキーの『ロシア革命史』の邦訳の過程で、注目せざるを得なかった問題点がひとつだけあり、私もそれについて調べてみたことがあったので、この機会に論及してみることにした。

 その問題点とは、二月革命後のいわゆる「七月事件」の意味づけにかかわるものである。
 倉持氏は、木村氏の『増補版 ソ連の歴史』の一節を引用しつつ、書評でつぎのように記した。
 
 「二つ目の例にあげたいのは、一九一七年の七月事件後に、「宣伝と扇動によってボリシェヴィキがソヴェトのなかで多数派となり、ソヴェト政権へ平和的に移行するという『四月テーゼ』の路線をとることは不可能となった」(四四頁)とするいわゆる二重権力消滅論である。」

 そして倉持氏は、「このソ連史学の通説が誤り乃至不適切であることは、長尾久氏が二〇数年まえに主張し(『ロシア史研究』一六号、『岩波講座 世界歴史』二四巻など)、その点に関して格別の反論もなく、われわれの共通認識となっているといってよいのではないかと、私は考えている。」(『ロシア史研究』五九号、1996、pp.126-127)

  「七月事件」といわれるものは、二月革命後の7月、臨時政府が武力を行使して、ボリシェヴィキ側のデモを制圧し、さらに、それを政府転覆の陰謀であるとして、ボリシェヴィキに弾圧を加えた事件である。その象徴的な事件がレーニンの地下潜行とトロツキー等の指導者の投獄であった。それまでソヴェト内部での党派闘争といういうなればソヴェト民主主義=ソヴェト議会主義の方法で政権につこうとしていたボリシェヴィキにとって、それはいうまでもなく権力側によるソヴェト民主主義=ソヴェト議会主義の破壊と映った。

 その情勢に照らして、レーニンは、「反革命が組織され、強化され、国家の権力を事実上掌握した・・・事実上、ロシアの基本的な国家権力はいまや軍事独裁である・・・全権力のソヴェトへの移行というスローガンは革命の平和的発展のスローガンであって・・・いまではもう正しくない。」とした。
 ボリシェヴィキ党の第6回大会も、「現在では平和的発展とソヴェトへの権力の犠牲なしの移行は不可能となった。なぜなら、権力はすでに実際に反革命的ブルジョアジーの手に移ったからである。現在の正しいスローガンは、反革命的ブルジョアジーの独裁を完全に倒すことだけである。」とする決議を採択した。
 以来、ソ連史学ではそうしたレーニンの発言や党大会の決定が絶対化され、のちの一〇月武装蜂起にいたる蜂起路線を正当化するための根拠とされていく。 
 
 では、その問題点について木村氏はどのようにのべていたか?

 木村氏の『ソ連の歴史』にはつぎのように記されている(以下、私は氏の初版本に拠っている)。

 「七月八日に臨時政府首相となったケレンスキーは、二四日にみずから陸海軍大臣を兼ねた第二次連立政府を組閣した。ボリシェヴィキを除くソヴェトの指導者たちはこの政府に加わり、二重政権は消滅した。」(p.43)
   そのあとに、「宣伝と扇動によってボリシェヴィキがソヴェトのなかで多数派となり、ソヴェト政権へ平和的に移行するという『四月テーゼ』の路線をとることは不可能となった」という倉持氏が引用した主張が続く。

  では、木村氏は倉持氏にどのように反論したか?  
 反論はつぎのようなものである。

 「二重政権の問題について、長尾説を無視しているとの指摘であるが、私はこの本の執筆にあたって長尾氏の著作を読み直した。レーニンの考える二重政権の立場からすれぱ、私の記述の限りでは矛盾していないと思う。このような問題は、長尾説のどこに拠っていないのか、ソ連のどの歴史家がどういっているのかが具体的に示されないと、反論のしようがない。ロシア革命については、ロシア史研のメンバーにしても、ソ連の歴史家にしても、多くの見方がある。レーニンに拠ろうとするだけで「ソ連史学」であるとするのは短絡的であろう。氏は、私の「間違い」の根本は、「十分な検討なしにソ連史学の主張をそのまま採用」し、「ロシア史研究会の共通認識」を無視しているためだということのようであるが、そのような言い方は、ソ連共産党の見解にそっていない、トロツキストであるといったきめつけと同じではなかろうか。「なにをなすぺきか」や「四月テーゼ」は、ロシア革命ばかりでなく、共産党史を理解するために不可欠の著作であり、そこに含まれている論点は今日においても重要である。(中略)・・・「人民大衆のなかでは、われわれはなんといっても大海の一滴である」とは、レーニンのことばである。この人民を動かして革命を実現させたのは、かれの理論と実践によるのであって、まずこれらの論文に拠って説明しようと考えたわけである。概説にあたってまずその点をおさえておこうというのが私の立場である。」(『ロシア史研究』60号、1997年、p.93)

 肝心の問題点は、すでに30年以上もまえに長尾氏によってすでに解明されていることを倉持氏は指摘しているのだが、木村氏のこの反論は、倉持氏の批判の肝心な部分にたいする回答にはなっていないように思える。「長尾説」の無視とか「ソ連史学」の踏襲とか「共通認識」無視とかの指摘は、非本質的な問題である。焦点は、あくまで<二重政権消滅>論の当否である。その面でのレーニンやボリシェヴィキ党の判断が適切であったかどうかが問われているはずである。しかし、木村氏は肝心のその問題点には適切に対応しているとは言いがたい。

 倉持氏が援用する長尾氏の所論とは、『ロシア史研究』16号や『岩波講座 世界歴史』24巻の所収論文である。前者は、「十月革命の諸問題ーー菊地昌典『ロシア革命』(中公新書)を批判する」という論文であり、後者は「二月革命から十月革命へ」である。

 「菊地昌典『ロシア革命』(中公新書)を批判する」では、長尾氏は、菊地氏のつぎのような所説に批判を加えた。
 「「二重権力」の消滅ーーソヴェトの革命的性格の限界」と題された自著『ロシア革命』の第7章で、氏は、「七月デモ」の帰結にかんするレーニンの発言に依拠しつつ、二重権力が消滅した段階では、もはや革命の平和的発展の可能性がなくなり、武装蜂起の道しかありえないとする。」(引用された菊地氏の文言はこちらで
 (もっともそれは、単にレーニン説の紹介にすぎなかったのかもしれない。しかし、「「二重権力」の消滅ーーソヴェトの革命的性格の限界」というタイトルは、著者もレーニン説にしたがっていることを示している。レーニン説を支持するのでなければ、それにコメントを加えるべきであろう。さもなければ、読者は混乱する。少なくとも、長尾氏はそれをもちろん菊地氏自身の所論と受け取って批判を加えた。)

 長尾氏は、菊地氏の<「二重権力」消滅論>の根拠が示されておらず、あえてそれを求めるならレーニンの判断でしかないとし、「こうして客観的事実の問題が、いつの間にかレーニンの主観の問題にすり代えられて」しまったと断じたp.38, 画像。もっとも、長尾氏はそこでなぜ<「二重権力」消滅論>が誤りなのかまでは論じていない。それは氏の次の著作でなされる。
 
 「二月革命から十月革命へ」では、長尾氏は「七月事件」の経緯、ならびにその後のソヴェト内革命派側と臨時政府側との抗争と力関係をつぶさに分析したあと、両者の力関係の均衡がなお保たれていることを確認し、つぎのように記のべた。

 「七月闘争直後レーニンが、反革命軍事独裁の成立=二重権力の消滅を主張したために、スターリン時代以来のソ連史学は、このレーニンの主張を墨守している。しかし以上検討したように、この説は七月闘争後の状況の客観的把握としては正しくない。」(p.369-370.)

  長尾氏はレーニンの状況判断が誤りだとしている。1970年時点でこれほど大胆にレーニン批判をなし得たとは実に驚嘆すべきことである。
 
 長尾氏はそれに続けて、ソヴェト内部での平和的な奪権構想についてつぎのように記した。
 
 「・・・革命派はなお、連合の主要な支柱であるソヴェトの内部に深く食い込んで、いくつもの革命的ソヴェトという形で自覚的二重権力を維持したのである。」(p.370.)

 菊地批判の時点ですでにトロツキーの『ロシア革命史』を高く評価していた氏は、当然レーニン=ボリシェヴィキの「七月事件」認識にたいするトロツキーの事実上の批判(後述)を知っていたと思われるが、氏は、トロツキーの状況判断をもちだすことなく、史実でもってその当否を吟味する方法を選び、ソ連側史料にもとづいてでさえ、史実はレーニン=ボリシェヴィキの判断を否認していることを実証したのである。

 氏はその後の労作でその検討をいっそう厳密かつ詳細におこなう。たとえば『ロシヤ十月革命』(亜紀書房、1972年、4「反革命派の攻勢とその挫折」)がそうである。章のタイトル自体が、菊地氏のそれと対照的な判断を適切に表現している。その実証は19ページ以上にわたって展開されている。そこでの氏のレーニン批判はいっそう鋭くなっている。氏の画期的な、記念碑的な所説を画像で確認されたい
 
   倉持氏自身の『ソ連現代史1』(山川出版社、1980)は、「二重権力消滅論」にはまったく論及することなく、「七月事件後の弾圧によって後退したかにみえたボリシェヴィキの党勢」のたちなおり、連立政府側の無力化とボリシェヴィキの実力についてのべている(p.202)。岩間徹編『ロシア史(新版)』第8章「ロシア革命」(和田春樹氏担当)でもそうした視点をとっていない。

 このように木村氏の『ソ連の歴史』以前の主な通史では、「二重権力消滅論」にたいする否定的判断がいわば主流だったのであり、倉持氏がそのことを踏まえて「共通認識」と指摘したのには根拠がなくはなかったわけである。
 
 しかし、問題は、やはり、事実に即して「二重権力消滅論」の当否を明らかにすることであろう。私には長尾氏がかつておこなったように、ロシア革命関係の新旧の史料を調べてそれを吟味するだけの力量はない。ただ、トロツキー『ロシア革命史』の邦訳にさいして、二月革命から十月革命にかけてのトロツキーの状況認識と革命過程におけるトロツキーの働きを自分なりに調べてみた。その結果については邦訳の第5分冊の巻末に掲載した「トロツキーとソヴェト議会主義」という「解題」で報告した。ちなみに、「ソヴェト議会主義」という耳慣れない用語を聞いて首を傾げる人々もいるのではないかと思うが、これはトロツキー自身が愛用した用語である。客観的に見れば、レーニンの、ソヴェトの頭越しの蜂起という構想に対置される概念であると私は理解している。

 菊地氏や木村氏が依拠するレーニンの状況判断をまず見よう。

  レーニンは7月10日、『四月情勢(四つのテーゼ)』で、反革命側に権力が移行したとして,武装蜂起方針を提起する。それは13日ー14日のボリシェヴィキ党の拡大中央委員会で審議されたあと、20日『プロレタールスコエ・ヂェーロ』紙に論文の形で発表された。レーニンの論文はつぎのように主張していた。

 「反革命が組織され、強化され、国家の権力を事実上掌握した・・・事実上、ロシアの基本的な国家権力はいまや軍事独裁である・・・ソヴェトの指導者ならびに社会主義者=革命家とメニシェヴィキの党の指導者は・・・最終的に革命の事業を裏切り、それを反革命分子の手に引き渡し、自分と自分の党とソヴェトを反革命のいちじくの葉に変えた・・・ロシア革命の平和的発展にたいするいっさいの期待は最終的に消滅した。軍事的独裁の最後までの勝利か、労働者の武装蜂起の勝利か・・・全権力のソヴェトへの移行というスローガンは革命の平和的発展のスローガンであって・・・いまではもう正しくない。」

  一方、事実上、ボリシェヴィキの一員として活躍していたトロツキーの判断は違っていた。
 「7月事件」直後の7月9日、トロツキーは『試練の日々』を『フペリョート』に執筆する。かれもソヴェト執行部の政策は革命の左翼の武装解除と無力化をめざしていると見る。しかし、かれは、その「方法を用いて「秩序」を確立することに成功したとしてもかれら(協調主義的執行部ーー藤井)がまっさきにーーわれわれのあとでーーその犠牲となるであろう・・・」とのべる。反革命勢力と協調主義者とは区別されている。協調主義執行部との敵対関係はいわば人民内部の矛盾としてとらえられている。
 トロツキーは7月23日、「7月事件」の責任を問われて逮捕され、投獄されるが、24日の「7月事件」にかんする予審でのトロツキーの供述はかれのソヴェト観を知る上できわめて重要である。かれは、自分の政治路線はボリシェヴィキと同じで、「労働者・兵士・農民代表ソヴェトへの全権力の移行」であるとしつつも、つぎのようにのべた。    
 「そのような移行がソヴェトをぬきにして実現されえなかったことは自明のことである。ソヴェトに抗してはましてのこと。したがって、われわれの主な政治的任務は、上記のスローガンの側に大多数の労働者・兵士・農民を獲得することにあった。事柄の本質そのものからして、少数者の武装蜂起によって多数者に権力をおしつけることなどは問題にもなりえなかった。私はその精神で何十回も会合で話した。」
 また、樹立さるべき「ソヴェト政府」とその革命的な内外政策(地主土地所有制の即時撤廃、巨額戦争利潤の没収、国家による生産管理、連合国にたいする他国領土併合拒否の要求など)の構想に論及しつつ、そのような政策が可能になるには、「われわれの潮流がソヴェトの中で支配的にならなければならない」とするが、「われわれが少数であるかぎりは、われわれは多数者に依拠する政策、したがって進撃の政策にもしたがわざるをえない、ただし同時にわれわれの理念のためのアジテーションはおこなうが。」(いわゆる「批判の自由と行動の統一」という普遍的組織原則をそこに見いだすことができる。)
 これは、「7月事件」でのボリシェヴィキの武装蜂起という告発にたいする反駁としてのべられたものであるが、決してたんなる言い逃れではなく、ソヴェト民主主義にたいするトロツキーの基本的な姿勢を示したものと見なければならない。なぜなら、25日の『革命は危機に瀕している』という論文(『フペリョート』)でも、今度は今後の方針という形で、つぎのように記しているからである。
 
 「われわれはこのソヴェトの構成にとどまるかぎり、もちろん、全エネルギーをあげて、その内的刷新とその全政策の根本的変更をめざして闘うであろう。われわれは革命のきのうを反映するソヴェトがあすの課題の高みにのぼりうるようにするため努力するであろう。」

 トロツキーの立場は「七月事件」以前と変化がない。それは、人民の議会ともいうべきソヴェトを権源として位置づける「ソヴェト民主主義」、トロツキー自身の表現を借りれば、「ソヴェト議会主義( советский парламентаризм) 」である。
 
 7月26日からボリシェヴィキ党の第6回大会(メジライオンツィとの合併大会でもある)が開催され、獄中のトロツキーは地下のレーニンとともに中央委員会メンバーに選出される。この大会はボリシェヴィキの路線転換で知られる。大会ではスターリンが政治情勢について報告をおこない、「政治情勢について」という決議案を提案し、審議のあと8月3日に可決される。その 決議の第7項にはつぎのように記されている。

 「革命の当初の高揚によって提起された、わが党がプロパガンダしてきたソヴェトへの権力の移行というスローガンは、革命の平和的発展のスローガン、ブルジョアジーから労働者と農民への犠牲のない権力移行、小ブルジョアジーによるその幻想の漸次的除去のスローガンであった。現在では平和的発展とソヴェトへの権力の犠牲なしの移行は不可能となった。なぜなら、権力はすでに実際に反革命的ブルジョアジーの手に移ったからである。現在の正しいスローガンは、反革命的ブルジョアジーの独裁を完全に倒すことだけである。」
Шестой съезд РСДРП (большевиков. Протоколы,,М.,1958,,стр.256 )

  これはとりもなおさず、二重権力が解消され、権力は完全に反革命的ブルジョアジーの側に移ったとする判断である。明らかにレーニンのテーゼを踏まえている。二重権力持続という判断からはソヴェト内での多数派確保という目標が出てくるが、逆の場合には革命勢力の武装蜂起による権力奪取という路線が出てくる。
 トロツキーは獄中にあったため、この大会に出て自分の判断を表明することも、レーニンと意見交換することもできなかった。スターリンの報告にもとづく大会決定が、革命後のソ連での公式史観の前提となる。党中央委員会や大会の決定は、党によって撤回されないかぎり、正当化されつづけなければならない運命にあり、そこからあからさまな, そしてときには悲喜劇的な歴史歪曲が生まれることになる。しかし、トロツキーはのちにーー革命後のことだがーー先の大会決議を誤りとして指摘する(岩波文庫『ロシア革命史』4-130]。またレーニンのこの時期の状況判断にも言及し、敵側の「決意と行動力」にたいするレーニンの過大評価を問題にした(岩波文庫『わが生涯』下、61ページ)。

  獄中のトロツキーのほうはむしろ、「七月事件」後にペトログラードでもモスクワでもエスエルとメニシェヴィキが弱体化していく一方で、ボリシェヴィキは逆に強まっていると判断し、いまや「官僚化した、構成の変わらない中央執行委員会に抗してペテルブルグ・ソヴェトを支援すること」、「ペテルブルグ・ソヴェトのために組織の完全な独立、その防衛、その政治的影響をかちとること」を課題にかかげ、「ペテルブルグ・ソヴェトは労働者・兵士・農民の下層の新たな革命的動員の中心にならなければならないーー権力をめざす闘いのために」と訴える。(8月17日,『これからどうなる?』、『プロレターリー』発表)

 レーニン自身もやがて(9月1日)、判断をあらためる。コルニーロフ反乱というあからさまな反革命蜂起に面して、協調主義的執行部との妥協の可能性が生まれたと判断し、「7月以前の要求、すなわち全権力をソヴェトへ、エスエルとメニシェヴィキからなる、ソヴェトに責任を負う政府という要求」に立ち返ることを訴え、その政府のもとで、「アジテーションの真に完全な自由と、ソヴェトの編成(改選)ならびにその職能における新たな民主主義の即時の実現によっておのずから革命の平和的な前進、ソヴェト内部での党派闘争の平和的な廃絶が保障される」と期待できるとした(『妥協について』、発表は、9月6日の『ラボーチー・プーチ』に)。先の『4月情勢』でのテーゼの修正である。いわゆる「二重権力消滅論」の是正、平和的発展路線への復帰である。
 こうして、レーニンとトロツキーの状況判断が再び一致を見る。
 レーニンに依拠してロシア革命について論じるとしたら、このレーニンの判断を無視してはならないであろう

 党中央部も事実上、そうした路線に復帰する。「平和的発展とソヴェトへの権力の犠牲なしの移行は不可能となった」とした問題の大会決議は棚上げされる。
 中央委員会は8月31日、「権力について」というソヴェト中央執行委員会に提出する宣言案を策定する。( Протокплы Центрального комитета РСДРП(б), М.,1958,, стр.37-38))

 決議は、コルニーロフの反革命陰謀に加担した政治グループを権力から排除して、革命的なプロレタリアートと農民の代表者からなる政権を創設することを訴えたもので、その政権はつぎのような課題を果たすべきとされていた。
 1 民主主義共和制の布告。
 2 土地の、買い戻しなしでの農民への引き渡しならびに憲法制定会議による決定までの土地委員会による管理。
 3 全国家的企業にたいする労働者統制や資本家からの戦争利潤の没収。
 4 秘密条約の破棄と即時の全面的民主主義的講和の提起。
 緊急措置として
 1 労働者階級とその組織にたいするあらゆる弾圧の停止。前線の死刑の廃止、軍隊内の完全なアジテーションの自由とあらゆる民主主義的組織の回復。軍隊からの反革命分子の一掃。
 2 コミサールその他の役職者の地方組織での選挙制。
 3 ロシア内の諸民族の自決権の実現。
 4 国家評議会と国家ドゥーマの解散、憲法制定会議の即時招集。
 5 あらゆる身分的特権の廃止、市民の完全な平等。

 ソヴェトの中央執行委員会のイニシアチヴのもとで革命政権を成立させるという平和的変革のプログラムである。
 その決議案はソヴェト中央執行委員会では否決された。
 ところが、それをそのあとペトログラード・ソヴェトの会議に上程したところ、深夜(9月1日の未明)に圧倒的多数で可決されたのであった(賛成279票、反対115票、棄権50.票)。
 首都のソヴェトのボリシェヴィキ化の始まりであった。
 同じ決議が9月5日、モスクワ・ソヴェトでも圧倒的多数で可決される。

 トロツキーの予想どおり、ペトログラードとモスクワのソヴェトが中央執行委員会を乗り越えて革命のいっそうの推進の道を進みはじめたのである。トロツキーの状況認識、見通しがきわめて適切であったことを示す事件であった。

 それは、ソヴェト内部での平和的な闘争で、ソヴェト執行部の構成と路線を転換させることが可能であることを実証したきわめて象徴的な事件であった。

 9月6日、ボリシェヴィキ党の中央委員会が開かれる。9月4日に釈放されたばかりのトロツキーははじめて中央委員会の一員として会議に出席する。そこでは早速、ペトログラード・ソヴェトの幹部会の選出方法が審議され、各党派の比例代表制にもとづく選挙を提案することを党として決める。

 9日、ペトログラード・ソヴェト執行委員会の幹部会は現幹部会信任案を提出するが、519票の多数で否決される(賛成414票、棄権67票)。ソヴェトのボリシェヴィキ化がその機関、執行委員会の構成にも反映しはじめたわけである。
 18日、トロツキーは民主主義会議でボリシェヴィキ代議員団の「宣言」を発表する。その中で注目を引くのは、やはりソヴェト民主主義にかかわる発言である。

 「わが党は、みずからの綱領の実現のために政権をめざして闘っているが、国の勤労大衆の多数者の組織された意志に反して権力を掌握しようとはかったことはかつてないし、またはかろうともしていない。しかし、アジテーションの完全かつ無制限の自由の諸条件とソヴェトの下からの絶えざる刷新のもとでは、影響力と権力をめざす闘いはソヴェト諸組織の枠の中でくりひろげられるはずである。」

 25日には、ペトログラード・ソヴェト執行委員会の新幹部会の選挙がおこなわれ、トロツキーが新議長に選出される。

 「われわれはあらゆる議員団の権利と完全な自由の精神でペトログラード・ソヴェトの活動を指導する。幹部会の手は決して少数派抑圧の手とはならない」という、獄舎から釈放されて間もない新議長の挨拶は印象的なものであった。
 
 以上の経過ならびにその後の推移は、党中央自体が形式的にはさきの大会決議に反しつつも、ソヴェトの平和的変革の道、すなわちソヴェト議会主義の道を進んでいくことを示す。
 言いかえれば、レーニン=ボリシェヴィキ党の「二重権力消滅」論は、主観的にも客観的にも否定されたのである。

 このように、私見では、倉持氏による批判はきわめて適切なものであった。

 最後に、倉持氏の『ソ連現代史』の意味についての私なりの判断を記しておきたい。
私には通史について論評するだけの力量はない。自分がかかわった特定の問題での個別研究を踏まえてなにがしかの判断を示しうるだけである。
 トロツキーの『ロシア革命史』の邦訳にあたって参考にした、専門家による一連の通史・概説書のなかで、もっとも感銘深かったのが、氏の『ソ連現代史』である。
 倉持氏のこの通史は、十月革命の準備と達成の過程で現実に主役を演じた指導者としてのトロツキーを記述の中心にすえた、他に類書のないユニークな著作である。
 氏の著作の意味について私は『ロシア革命史』の邦訳第2分冊の巻末の解説「 トロツキー『ロシア革命史』の史料について」で記したが、それを画像でここに転載して、倉持氏への追悼のことばにかえさせていただく。