粛 清のメカニズム  


    1 治安機関の裁判ぬき判決・処刑システム  

   すでに見た日本人被粛清者の記録には、しばしば、<トロイカ>や<特別協議会>の決定により銃殺・・・等々の文言が出てきていた。  それらの正体はいったいかなるものであったのか。以下、ソ連検察庁・ソ連国家保安委員会の「裁判外機関について」という文書によりその実体を紹介する。 (ソ連共産党中央委員会刊行『ソ連共産党中央委員会通報』1989年第10号、pp.80-82.)  

 簡単に言えば、それらは、裁判を経ないで即刻、処分を決定・執行するシステムのことである。その起源は10月革命直後にさかのぼる。1917年12月に 設置されたVCHK(ヴェチェカー;全ロシア反革命・サボタージュ対策非常委員会の略称)が、18年2月、人民委員会議布告により、即刻銃殺の権限を含む 裁判ぬき審理の権限をあたえられる。
 1922年、VCHKは廃止され、その機能は内務人民委員部(NKVD)にうけつがれ、同人民委員部に新たに「国家政治部」(GPUゲーペーウー)が設 置され、22年10月の全ロシア中央執行委員会(のちの最高会議幹部会にあたる)の決定により、凶悪現行犯にたいする、銃殺を含む裁判ぬき制裁権が付与さ れ、同人民委員部の「追放特別委員会」に反ソ分子を強制労働ラーゲリへ送る権限があたえられた。
  1924年に「統合国家政治部」(OGPU)が設置され、「行政的追放、流刑、強制収容所拘禁にかかわる統合国家政治部の権限にかんする規 程」というものが中央執行委員会によって定められ、そうした措置の実施がOGPU付属の「特別協議会」という機関にゆだねられることとなった。この「特別 協議会」なるものはOGPUの「幹部会」の3人のメンバーで構成され、検察側の監視のもとで開かれるというものであった。このOGPUの「幹部会」自身も 「特別協議会」と平行して裁判ぬき活動をおこなっていた。

  トロイカ  

 つぎにOGPUは1929年と1931年に「トロイカ」(3人組)なるものを設置する。それは予審事件をあらかじめ審理し、「幹部会」ないし「特別協議 会」の裁判会議でそれを報告することを目的としており、「トロイカ」には、OGPUの捜査部門とモスクワ軍管区のOGPU全権代表部の指導者が入るものと された。またそこにはOGPUの検察部門の代表者も加わるものとされていた。  OGPUそのものは1934年に廃止され、内務人民委員部(NKVD)の1部局となるが、矯正労働ラーゲリ拘禁、流刑、5年未満の追放や「社会的に危険 と認めれられる者」の国外追放を宣告する権限を有する「特別協議会」はNKVDの中に存続させられ、その「特別協議会」には、人民委員代理(複数)、その ロシア全権代表、労農民警本部長、当該刑事事件が発生した連邦共和国の内務人民委員が加わるとされた(検察側も)。

  ところが1935年には、NKVDならびにNKVDの地方局にも「トロイカ」が組織され、そこに「特別協議会」の権限が委譲されることとな る。「トロイカ」を構成するのは、委員長として、NKVD局長ないしその代理、委員として民警部長、「トロイカ」があつかう事件の担当の部の長とされた。 「トロイカ」は追放、流刑、5年未満のラーゲリ拘禁について決定した。協議会には検察官の参加が必須とされた。
  つづく1937年7月30日付きのソ連NKVD命令では、各共和国・地方・州の段階でも「トロイカ」が設置され、そこでは犯罪者の種類が 「もっとも敵対的な分子」とその他に分けられ、前者は銃殺、後者は8ー10年のラーゲリないし監獄への拘禁という刑罰が定められた。そうした「トロイカ」 は、委員長として地方の各内務人民委員、NKVDの地方・州局長が、委員としては各連邦共和国共産党中央委員会、地方・州党委員会の第1書記、共和国・地 方・州検察官から構成された。

  ついで1937年8月11日と9月20日のNKVD命令により、共和国内務人民委員とNKVD局長の「ドヴォイカ」(2人組)で当該級検察 官と共同で粛清者名簿を作成するようになった。  そうした「トロイカ」や「ドヴォイカ」は1938年11月17日付の人民委員会議・党中央委員会決定を受けて廃止される。しかし「特別協議会」そのもの はNKVDの再編(国家保安省や内務省への編入)にもかかわらず、その後も存続し、スターリン死後の、1953年9月1日付のソ連最高会議幹部会令によっ てようやく廃止される。  東洋学専門学校のわが日本語教師たちはこのトロイカ粛清システムのいわば全盛期にそのいけにえとなったのである。

  2 刑法第58条  

 日本人の粛清にさいしては、すでに見たように刑法のいくつかの条項が援用されていた。ここであらためて問題の条項について詳しく紹介しておきたい。  

 かれらに適用された「ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国刑法典」(以下、「ロシア刑法」)は、1926年の全ロシア中央執行委員会で制定され、 1927年1月1日から発効した。(『ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国刑法』モスクワ、1953年版による。) ロシア刑法は一般的部分と特殊的部分 とに大別されており、問題の条項は特殊的部分の第1章「国家犯罪」の中にある。第1章は2節からなり、第1節は「反革命犯罪」と題され、第58条第1項か ら第14項まで用意されている。第2節は「ソ連邦にとりとくに危険な、統治制度に敵対する犯罪」と題され、第 59条第1項から第13項まで用意されている。
  まず勝野に適用され、ついで東洋学専門学校の日本語教師のすべてに適用された第58条第6項。
 第58条第6項 それはつぎのような内容である。(注記のたぐいは割愛)。  「スパイ行為、すなわち、その内容からして特別に保持されている国家秘密である情報を外国国家、反革命的な組織ないし個人にたいして伝達したり、盗み とったり、あるいは伝達する目的で収集したりする行為は、つぎのとおり処罰されるーー  3年以上の自由剥奪ならびに財産のすべてもしくは1部の没収、またスパイ行為がソ連邦の利害にとってとりわけ重大な結果を招いたか、招きかねなかった場 合は、社会的防衛の最高手段ーー銃殺ないし勤労者の敵としての公告、ならびに連邦共和国市民権、したがってソ連市民権の剥奪およびソ連からの永久追放およ び財産没収。  その内容からして特別に保持される国家秘密にはあたらないが、法律が直接に禁止することにより、または官庁・施設・企業の指導者が指示することにより公 表を許されていない経済的情報を上記の組織や個人に、報償を受けて、あるいは受けないで伝達したり、盗みとったり、あるいは伝達する目的で収集したりする 行為は、つぎのとおり処罰されるーー  3年未満の自由剥奪。」  勝野やモスクワ東洋学専門学校の同胞たち、野坂竜はこの条項違反の容疑で逮捕されている。国崎定洞や小石浜蔵も同じ条項が適用されているが、あとの2人 はつぎのような3つの条項も適用されている。それは同じ第58条の中の第8項と第11項のほか、第1部(一般的部分)の第17条である。それは次の ような内容のものである。
  
 第58条第8項
 
 「ソヴェト権力の代表者もしくは革命的労働者農民組織の活動家にたいするテロ行為の遂行、ならびに、たとえ反革命組織に所属していない人物によるもので あるにせよそのような行為への参画は、つぎにより処罰されるーー   本法典第58条第2項に定める社会的防衛の措置。」 

  第58条第2項とは、内外の武力勢力によるソヴェト国家の侵略・転覆にかんするものであるが、そこに定められている「社会的防衛の措置」と は、つぎのようなものである。
 「社会的防衛の最高の措置ーー銃殺または勤労者の敵としての公告ならびに財産没収と連邦共和国市民権、したがってソ連市民権の剥奪、ソ連からの永久追 放、ただし情状酌量の余地ある時は3年以上の自由剥奪と財産の全部または1部の没収までの減刑。」  また第58条第11項とはつぎのようなものである。
 「本章に規定する犯罪の準備または遂行をめざしたあらゆるたぐいの組織的活動、また同様に本章で規定する犯罪のひとつの準備または遂行のために結成され た組織への参画は、つぎにより処罰されるーー  本章の当該条項で定められた社会的防衛の措置。」

  第17条は共犯にかんする規定である。

  「裁判・矯正的性格の社会的防衛の手段は、犯罪を遂行した人物ーー遂行者にたいしてとひとしくその共犯者ーー教唆者や共謀者にたいしても適 用されなければならない。
  教唆者とみなされるのは、犯罪の遂行へとしむけた人物である。  共謀者とみなされるのは、助言、指示、手段供与、障害除去により犯罪の遂行を助成したり、犯人や犯跡の隠匿を助成したりした人物である。」   条項そのものにそれほど問題はない。どこの国にもそのたぐいの刑法上の規定はあるであろう。問題は、罪状判断で証拠を無用としたソ連の司法の実態にある。 無実の市民が確かな証拠もなしに逮捕され、ほとんど審理もなしに投獄されるという事件は1930年代のはじめにすでに頻発していた。『凍土地帯』をはじめ とする勝野金政の一連の著作は、その頃に日本人自身が体験した初期の粛清の得がたい証言である。         
 3 粛清の論理   

  レーニン時代の粛清 

  「粛清」それ自体は別にスターリン時代の産物なのではない。「粛清」は、レーニン時代にすでに開始されている。たとえば党の「全面的粛清」 という方針。それはレーニン時代の第10回党大会(1921年)で提起されたもので、レーニン死後には2度、すなわち1929−30年と、1933ー39 年に大規模に展開される。(本節での記述はとくに断りのないかぎり、拙著『民主集中制のペレストロイカ』(大村書店、1990年)の再掲である。出典につ いてはそちらを参照されたい。)  スターリン時代の「粛清」にかんして、その淵源をレーニンにおける粛清の思想にもとめようとする見地もなくはない。しかし両者における粛清の質的内容は 決して同じではない。
  レーニン時代には、粛清の方針は、第10回党大会の「党建設の諸問題にかんして」という決議の「党の健全化にかんする一般的措置」の第21 項のなかで、まず提示される。そこでは、「小プルジョア的であって、共産主義的精神において加工されていない」分子が党に入ってきているという実情にかん がみて、全党員を再点検して、「非共産主義的分子」を党から「粛清する」必要があると指摘されていた。
  この小プルジョア分子の粛清という方針は、コミンテルンの加入条件のひとつともされる重要方針なのであるが、この方針の内容はもっと詳細に 検討されなければならない。
  1921年6月、党の中央委員会と中央統制委員会とは第10回党大会の決定を実行に移すぺく、党の点検、粛清にかんする決定を採択する。同 年7月27日付の「党の粛清の実施にかんする、すぺての党組織へのロシア共産党(ボ)中央委員会の手紙」という文書はそうした粛清の課題や規準を明らかに している。
   この「手紙」は、1917年の4月協議会の時点ではわずか4万(この数字は不正確で、実際には8万)にすぎなかった党員がその後、増大の一途をたどり、 非プロレタリア分子の大量の入党ーーとくに赤軍組織を通しての農民のーーがつづいていたこと、他方で、ソヴェト権力に依存して生計をたてなければならなく なっているインテリゲンツィア、半インテリゲンツィアが立身出世をねらい、権力の一片を手にいれようとしてやはり大量に党に入ってきていること、結果とし て60万の党員のなかで、「社会的にわれわれと無縁な分子」が一定の比率に達し、巧妙に立ちまわって党組織に多大の腐敗をもちこんでいること、を指摘す る。そして、そうした腐敗的現象の規模の大きさからして、ふつうの定期的再登録だけでは不充分であるとして、まさしく「全面的」な「粛清」が展開されなけ れぱならない、とした。  つづいて、「手紙」は粛清の対象と規準を明確にする。なによりも注意をむけなければならないのは「異階層」出身の党員であり、党の基盤であるプロレタリ アにたいしては形式上の手続きは最小限、必要なものにとどめるぺきであるとされる。しかし労働者の出身でも「コミッサール化した」(一定の権限をにぎって いる、というほどの意)人間が多く、そういう〃高官〃のなかには、プロレタリアのすぐれた資質を失って、官僚の悪しき資質を身につけた者もいるので、右に のぺたことはこういう「高官」にはあてはまらない、とされる。  農民層については私利私欲のためにだけ党にはいっているような分子を対象にする一方、プルジョア・インテリゲンッィア出身の勤務員にはとりわけきびしく のぞむべきである、とする。
  しかし、そこでとりわけ重視したいのは、この粛清に私怨やグループ間の対立をもちこんではならないとしたあと、「異見」の持ち主について、 つぎのように規定しているという事実である。
  「党内の異見者ーーたとえば、以前の「労働者反対派」などのメンバー−−にたいする弾圧はいかなるばあいにも許されない。」
  ここでは、「異見」そのものは、明らかに、粛清の対象とされていない。それどころか、異見にたいする弾圧そのものが禁止されている。この点 は、スターリン時代の粛清のねらいと比してまったく対照的である。そこでは異見そのものが粛清の対象となっていくからである。この当初の粛清目的とスター リン的粛清のねらいの違いを無視すべきではない。  レーニンも同年の9月、「党の粛清について」という論文を書いているが、それは右の「手紙」の趣旨にそったもので、粛清の対象は、共産主義者としての〃 腐敗〃と要約しうるような言行にほかならなかった。  この第1次「全面的粛清」運動の結果、約66万の党員のうち約24%にあたる約16万人が党から離れているが、その内訳を見ると、まず全体の3%に当る 約1万8千人が自発的に離党、1%弱が侯補に格下げのほか、21%が除名処分に付されている。この除名者を理由別で見ると、その約3分の1(約34%)は 党活動にまったく参加していないということであり、25%は出世主義、利己主義、飲酒、プルジョァ的生活様式、約9%が収賄などの地位利用や権力乱用、約 4%が宗教的儀式の遂行、約4%が反革命的目的で入党していた旧官憲、となっており、所期の目的のとおり、無活動分子やいわゆる腐敗的分子が党から迫放さ れているという事実が判明する。

  異見排撃から「偽装」異端抹殺へ

  しかるにスターリン時代には粛清の基準が著しく歪曲される。たとえば、1934年の第17回党大会で制定された規約は、粛清の定期的実行と その基準を設けているが、それはつぎのようなものである。 「全連邦共産党(ボ)中央委具会の定期的決定により、つぎのような者を系統的に党から追放するための粛清がおこなわれる。 1 階級的に異端で敵対的な分子、 1 党を欺き、党にたいして自分の本当の見解をかくし、党の政策を挫折させようとする面従腹背者、 1 党と国家の鉄の規律の公然、隠然の破壊者、 1 プルジョァ分子と癒着しつつある変質者、 1 出世主義者、利己主義者、官僚化した分子、 1 自己の醜悪な行状によって党の品位をおとし、党の旗をけがす道徳的腐敗者、 1 党員の義務をはたさず、綱領、規約、党の最重要諸決定を習得しなかった消極的人間。」  

 こうした,「粛清」条項は、それまでの党規約にはなかったものであり、かつ、粛清がやや緩和されるつぎの党大会(1939年)では不適切として規約から 削除されるものである。    スターリン的粛清の掟と実践は、まず異見排撃として開始された。トロツキー派をはじめとするスターリン主義批判勢力(今にして思えば、トロツキーこそス ターリンによる社会主義の歪曲にもっとも果敢に抗し、それゆえにスターリンが放った暗殺者により抹殺された先見の明ある共産主義者であった)にたいする弾 圧の手段として。(勝野が『凍土地帯』で描いた「清党」は、そのトロツキー派粛清のはしりを意味するものであった。)
  しかしより重大なのは、この異端粛清の論理が「偽装」異端の狩りだし・尋問・抹殺の理論と実践へと変貌していったことである。  それを端的に示したのが、1937年2月ー3月の党中央委員会総会でのスターリン報告である。この総会の内容はソ連で長らく秘密にされてきた。そのため われわれはアメリカ版のスターリン著作集に収録されている文書によってスターリン報告ーーそれは「党活動の欠陥ならびにトロツキー主義的およびその他の二 枚舌使いの絶滅の手段について」という題名をあたえられていたーーに接していた。しかしごく最近、ソ連崩壊にともなって秘密文書の公開がすすめられた結 果、ロシアの歴史学者たちの努力で右の総会の全容が速記録の公表という形で明らかにされつつある。
  総会報告でスターリンは、キーロフ暗殺事件は、「人民の敵が二枚舌を使うであろうこと、そして信用をかすめとってわれわれの組織内にもぐり こめるようにするために、二枚舌を使って、ボリシェヴィキを、党員をよそおうであろう」という重大な予告であったが、その後の経過ーーとくにジノヴィエフ =カーメネフ裁判ーーは、それを実証したという。(『共産主義インターナショナル』1937年、第3号、p.4)  スターリンが人民の敵として問題にするのはトロツキー主義者である。スターリンによれば、「二枚舌と偽装こそジノヴィエフ派とトロツキー派がわれわれの 組織内に浸透するための唯一の手段であり、警戒心と政治的慧眼こそ、ジノヴィエフ=トロツキー派一味の根絶のためにそうした浸透を防止するもっとも確実な 手段である」。
  現在のトロツキー主義は数年前にそうであったような「労働者階級のなかの政治的潮流」ではなくなり、今では「諸外国の諜報機関の指示にした がって行動する妨害者、撹乱者、スパイ、殺人者の徒党」と化している。  「現在のトロツキー主義者は、労働者階級にたいして自分の本当の顔を見せることをおそれ、自分の真の目的と課題を明るみに出すことをおそれ、自分の政治 的相貌をけんめいに労働者階級にかくそうとしている・・・トロツキー派の主たる活動方法は、いまでは、労働者階級のなかで自己の見解を公然かつ率直にプロ パガンダすることではなくて、自己の見解を偽装し、論敵の見解を卑屈に、そしてへつらうようにほめあげ、自分自身の見解を偽善的に、そして欺瞞的に泥にま みれさせることである。」
  スターリンのそうした論法によれば、いまではトロツキー派は、党の公式の路線を熱烈に支持し、かつ反党分子をきびしく糾弾するという活動方 法をとっているというのであるから、公然と党に忠誠をつくす党員はトロツキー主義者である可能性が高いことになる。では偽装した敵か否かをどのようにして 見わけるのか。その方法は示されていない。ただ絶滅する手段が語られるだけである。偽装したトロツキー主義者とたたかう手段は、これまでのような討論の方 法ではなしに、<根絶と壊滅>という新しい手段でなければならない、と。  そこから見さかいのない肉体的絶滅の路線がでてくる。そして真に、もっとも党に忠実であるはずの党員を含めて全国民が<偽装仮想敵>となる。近世ヨー ロッパを荒れ狂った<異端尋問>や<魔女狩り>では、火炙りにすることで魔女であるか否かをつきとめようとしたが、20世紀のスターリン版魔女狩りでは、 偽装の有無を調べ、正体をつきとめるという手だては、拷問による自白という証明方法であった。
  そうした「偽装敵」根絶の政策は、1937年段階で突如として生まれたわけではない。それは思想的にはキーロフ暗殺事件の前、少なくとも 1930年代のはじめにさかのぼる。(この問題については拙著『レーニン「遺書」物語』教育史料出版会、1990、もあわせ参照されたい。)
  スターリンは、1931年10月、『ボリシェヴィズムの歴史の若干の問題』という文書を『プロレタリア革命』という党中央付属のレーニン研 究所の雑誌の編集部に送りつける。そこでのべられたスターリンの指示はすぐに中央委員会の決議となり(同年12月)、やがて全イデオロギー界を支配するこ とになる。
  それはどのようなものであったか。

  「若干のボリシェヴィキたちは、トロツキズムが共産主義の一フラクション、なるほど過ちをおかし、少なからず愚行ををしでかしている、とき には反ソヴェト的でさえあるものの、それでもやはり共産主義の一フラクションである、と考えている。トロツキストやトロツキー的にものを考える連中にたい するある種の自由主義はそこからでてくる・・・だが実際にはトロツキズムは、もうずっとまえに共産主義の一フラクションであることをやめている。実際には トロツキズムは、共産主義にたいし、ソヴェト権力にたいし、ソ連の社会主義建設にたいして反対闘争をすすめている反革命的ブルジョアジーの先遣部隊なので ある。」

  「・・・粉砕され、偽装しているとはいえそのトロツキズムにたいする自由主義は犯罪、労働者階級にたいする裏切りと境を接する投げやりとい うものである。  ・・・偽装したトロツキズムのがらくたをわが国の著作物に密輸的にもちこもうとする一部の「文筆家」や「歴史家」の試みは、ボリシェヴィキの側からだん こたる反撃をくらうべきである。」(ロシア語版『スターリン著作集』第13巻、pp.98-100)

 「偽装敵」の摘発という施策は、1935年にすでに全党への秘密書簡で指針化されていた。この秘密書簡も長い間、秘匿されてきたが、ペレストロイカの過 程で(といってももう6年近くになるが)ソ連の共産党中央みずからの手で公にされた。(『ソ連共産党中央委員会通報』1989年、第8号、p.95以下)  最初の秘密文書は1935年1月18日付のもので、キーロフ暗殺(1934年12月1日)から50日ほどして送付されている。  そこではジノヴィエフ派がすでにキーロフ暗殺の元凶と断定され、ジノヴィエフ派とたたかうさいの戒めが説かれている。  まず、かれらの偽装について語られる。  「ジノヴィエフ一派はみずからの犯罪的行為を党に隠蔽し、かつあらゆる党機関と党指導部に接近することを可能にする党員証をもちつづけるべく、党に対す る主たる方法として二枚舌の道を選び、党に対する忠誠とソヴェト権力に対する献身の誓いと上申とによってみずからの悪行を偽装してる。」
  しかるにレニングラードの党組織、なかんづくNKVD は、そうした動きにたいする警戒心が不十分で、防衛にかんしてすこぶる怠慢であったとして糾弾される。
  そして、「秘密書簡」は、党内の「日和見主義的温情」なるものをとがめ、それは「右翼的偏向の残りかす」であると非難する。そして必要なの は「真のボリシェヴィキ的革命的警戒心」であるとした。(『ソ連共産党中央委員会通報』1989年第 pp.95-100。 この種の秘密書簡は、翌年の7月29日付にも送付される。こんどは、ジノヴィエフやカーメネフなどの予審での「自白」なるものを多々引き合いに出し、「現 状での各々のボリシェヴィキの不可欠の資質は、党の敵がいかにたくみに偽装していてもそれを見破る能力でなければならない」としていた。(p.115)
  偽装敵を見破るとは、疑惑をいだくことなしに不可能である。疑惑をいだかないことは、自由主義となる。自由主義は犯罪である。この論理がた だちに「密告」と「密告合戦」を招来することは明白であろう。 野坂参三も山本懸蔵も、東洋学専門学校の同胞たちもすべて、この意味で党に忠実であろうと したがゆえに密告に走ったはずなのである。

   4 エジョフ体制

 無根拠な粛清にさらに拍車をかけたのは、スターリンとジダーノフが地方から政治局員に送った1936年9月25日付きの有名な電報である。それはかつて フルシチョフが有名な『秘密報告』で明らかにしたもので、つぎのような内容のものであった。ちなみにこの『秘密報告』もペレストロイカの過程でソ連共産党 自身によって公にされた。
  「同志エジョフを内務人民委員のポストにつけることが絶対に不可欠かつ緊要なことであると考える。ヤーゴダは、トロツキー=ジノヴィエフ・ ブロックの摘発の仕事で明らかに自分の任務をきちんと遂行しなかった。OGPUはその仕事で4年も遅れをとっている。すべての党活動家と大部分のOGPU 州代表者がそう語っている。」(『ソ連共産党中央委員会通報』1989年3月号、p.138; 邦訳、講談社学術文庫版p.50。)
 この指針が、前述の党中央委員会総会(1937年2月ー3月)のスターリン報告となってあらわれるのである。そしてスターリンのそうした粛清方針は、党 中央委員会総会そのものの決定としてオーソライズされる。その総会の決議はひさしく非公開とされてきたが、このほど(1994年10月)新生ロシア の歴史学者の手でやっと公にされた。1937年3月2日、モロトフとカガノヴィチの報告にもとずいて採択された決議で、「日本・ドイツ・トロツキーの手先 の妨害・撹乱・スパイ活動の教訓」という文書がそれである。  

   5 外国人・日本人敵視  

  外国共産主義者への疑惑

 ソ連にはもともと、共産主義者を含めて外国人をいわば「偽装敵」視する姿勢があった。  コミンテルン関係者は「リュックス」という高級ホテルに住んでいた。このホテルは常時、GPUの監視下にあった。かつてスターリンの側近として諜報工作 にあったていたW.クリヴィツキーはつぎのように語っている。
 「OGPUにとって、国費で「リュックス」に住んでいるこの毛色のちがう客たちの全体はつねに嫌疑の対象であった。「プロレタリア革命」のこのボール紙 の小世界は、いつも策謀、争論、スターリンへの忠誠の不足ということでの非難合戦でわきたっていた。OGPUはその情報提供者をとおしてそうした非難や逆 非難を記録していた。
  粛清の時期にはソ連在住の外国共産主義者の追及や逮捕がはじまった。コミンテルンの領事たちはついに重要な仕事をあたえられた。かれらは OGPUの手先となった。そして同国人をOGPUに売り渡すことでのみみずからの境遇を、またときには頭をも救おうとして同国人たちにたいする誹謗をおこ なった。」(W.クリヴィツキー『私はスターリンの手先だった』1991年、モスクワ、p.124;邦訳『スターリン時代』みすず書房、1987年、 p.48.)
  またクリヴィツキーは、コミンテルンのアパラートとGPUや軍諜報部との、世にあまり知られていない秘密の関係をつたえている。  それによれば、クレムリンの正面にあるコミンテルン本部はGPUの私服の手先で厳重に警護されている。その建物に出入りする者は地位のいかんにかかわら ず厳重な監視下におかれる。アメリカ共産党の書記長がディミトロフに会おうと思っても、入り口の管理人によって身分証明書を丹念に調べられ、それから入構 証をもらう。帰るときも入構証を再度ていねいに調べられる。そこには訪問した相手のサインがなければならないし、いつ会談が終わったか記載されていなけれ ばならない。建物の中に1分でもよけいに とどまっていたことがわかると、その説明をもとめられる。廊下での立ち話は厳禁である。
  ドイツ人と日本人は、共産主義者であると否とを問わず、潜在的スパイとして疑われていた。
  クリヴィツキーは1934年5月のある朝のエピソードをこうつたえている。
  ルビャンカのGPUの建物の10階にある防諜局長ヴォルインスキーを訪ねたときのこと。表通りを、ウイーンでファシストと勇敢にたたかった あとソ連に亡命してきたオーストリアの社会主義軍隊の隊員300名が行進してきた。それを見て局長がこうきいたというのである。
  「あのなかにスパイが何人いると思うか?」
  1人もいないとクリヴィツキーが腹をたてて答えると、かれはいった。
 「君はひどくまちがっている、6、7カ月後にはかれらの70%あまりがルビャンカに入ることになる。」
  実際には、ひとりとしてソ連に残らなかった。多くは入ソ直後に逮捕されたし、後の者は、ソ連にとどまるよりも祖国の獄中生活のほうをよしと して自国の大使館にかけこんだ。
  勝野も同じ時期に「祖国の獄中生活のほうをよしとして自国の大使館に」かけこんだ共産主義者であった。

 日本人はみなスパイ  

 さきに1937年の中央委員会総会で決定された指針に言及した。そこには、日本人にかんしてたとえばつぎのような規定があった。
 「日本・ドイツ・トロツキーの手先は、わが国における社会主義の建設にたいする公然たるたたかいで摘発され、完全に粉砕され、社会主義経済を公然かつ合 法的に破壊する可能性を失って、偽装した、深く陰謀的な、妨害的・スパイ活動的・後方撹乱的な方法でたたかいをおこなってきた。」( 『歴史の諸問題』1994年第10号、p.4)
  人民の敵の摘発で4年は遅れをとっていると批判されたNKVD職員が、4年の遅れをとりもどすためにいかに奮闘したかは想像に難くない。それまでも根拠の あるなしにかかわらず逮捕・粛清をくりひろげてきた連中でのことである。手当たりしだいに人民の敵を「発見」し、摘発・処刑していったはずである。しかも そこでまっさきにあげられているのが日本のスパイであってみれば、モスクワやレニングラードの東洋学専門学校のわが同胞たちをはじめとする忠実な共産主義 者こそたくみに偽装しているスパイとしてその槍玉にあげられたにちがいない。
  エジョフ体制の時代の『プラウダ』(1937年7月9ー10日付)は、偽装日本人スパイについてつぎのようにのべていた。  「トロツキー派、ブハーリン派等のスパイの外に、亡命労働者、サーカス団、左翼インテリ(舞台監督、文学者等々)の各種の看板でソ連に潜入して来る日本 人スパイがあるが、彼等の偽装は巧妙で、之が暴露は相当に困難である。」(『外事警察報』1937年9月、第182号101ページ。)
  共産党機関誌の巻頭論文であってみれば、これは決定的意味をもつ指針となるものである。
  NKVD要員がそれにもとづいて片っ端から日本人を逮捕していくさまが想像できる。モスクワやレニングラードの東洋学専門学校で働く日本語 教師たちはまさに亡命労働者であった。かれらは無条件にスパイあつかいをされてしまったわけであり、杉本や岡田等の「左翼インテリ」は、嬉々としてエジョ フの「虎口」へとびこんでいったわけである。
  またロイ・メドヴェーヂエフも、1938年4月12日付きの「ジュルナル・ド・モスクー」という雑誌に次のような記事がでていたことを紹介 している。(ロイ・メドヴェーデフ『歴史の審判へ』p.428;邦訳『共産主義とは何か』三一書房、上、p.36)  「外国に住んでいるドイツ市民がいずれもゲシュタポの手先であるのと同様に、外国に住んでいる日本人はいずれもスパイであると言っても決して誇張にはな らないであろう。」
  当時のドイツと日本がソ連侵略を狙っていたこと、そのためにソ連でさまざまな諜報活動をおこなっていた事実は否定できない。その意味で在ソ のわが同胞たちに疑惑の目が向けられることはやむを得ないことであった。だが問題は、ソ連の国家と党が社会主義の敵と味方を識別できなかった、あるいは識 別しようとしなかったことである。

   6 上意下達システム  

 粛清のメカニズムに関連して最後に問題にしなければならないのは、国民を指導する「前衛」を自負する共産党というものの組織原理である。「前衛」党がな ぜ不法な粛清を防止しえなかったのか。粛清の責任はしばしばスターリン個人に帰せられるが、党がなぜそのスターリン個人ーーいかに高い地位にあれーーの無 法行為を抑えることができなかったのかという問題は、しばしば不問にされる。
  ここで問題にされるべきは、民主集中制という名の上意下達シ ステムである。
  スターリン時代の党規約(1934年制定)には、第18条に、上級機関のいかなる決定ーー客観的に見ていかに不当な内容をもつであろう とーーをも絶対化させる<民主主義的中央集権制>なるものの規定があった。この規定はつぎのような義務を党に強いるーー「下級機関および全党員にとっての 上級機関の決定の無条件的な拘束性」。  そうした党上級機関の決定は、不法なものであれば、全党を拘束しないのか。不当な上意にたいする下部の<抗命権>は認められているのか。レーニン時代に はまだしも一定の批判の自由・権利が保障されていた。しかしスターリン時代には批判は異見・異端を意味した。上級機関の意志は絶対であった。
 「疑わしき者は殺戮せよ」という方針が上級機関で決定されれば、だれしもその決定に従わなければならないのである。この自縄自縛の掟こそ不法きわまりな い粛清を国中にーーひいては世界中におしひろめていった元凶である。党員、とりわけ権力機関にある人間は、ときには自分自身の意志に反してさえ、この掟に したがって、おそらくそれが共産主義の理想を近づける道であると信じつつ、無実と知りつつ、同胞を告発し、処刑していったはずなのである。20世紀世界に 蔓延したコミンテルン共産党版マインド・コントロールである。
  そしてこの民主集中制という名の上意絶対化の掟は、スターリンの<社会主義からの逸脱>とか<大国主義>とかを非難するような外見を示す現 代世界の共産党(たとえば日本共産党)のなかに生きつづけているのである。